日本歴史改方

息栖神社

息栖神社は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社である。古くから信仰を集め、関東以北の人々は伊勢参宮の後に「下三宮巡り」と称してこの三社を参拝した。

807年に藤原内麻呂によって現在地に移転されたと伝えられている。『日本三代実録』では当社の名称を「於岐都説神」と記し、1321年の古文書では「おきすのやしろ」と記されている。「おきつせ・おきす = 沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神と考えられている。祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることから水上交通の神であり、鹿島・香取と同様に東国開発の一拠点であったと考えられている。

概史

香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称された。ただし、地理的な関係から鹿島神宮の影響が強く、当社は鹿島神宮の摂社とみなされていた。鎌倉時代の『鹿島社例伝記』や室町時代の『鹿島宮年中行事』から、鹿島神宮と当社の密接な関係が指摘されている。また、当社は朝廷からの崇敬を受け、元寇の際には国家安泰を祈願するために勅使が派遣された。

江戸時代には徳川家から厚い崇敬を受け、1604年には鹿島神宮領から14石が給された。この時代には「下三宮参り」と称して関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する慣習があった。参拝客が利用する息栖の河岸は、利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えた。

年表

西暦出来事
応神天皇期日川の地(現・神栖市日川)に社が創建される
807年藤原内麻呂によって現在地に社が移転される
885年『日本三代実録』に「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたと記録される
鎌倉時代『鹿島社例伝記』に鹿島神宮との関係が記される
1274年頃国家安泰を祈願するために勅使が派遣される
1321年古文書で「おきすのやしろ」と記される
室町時代『鹿島宮年中行事』に鹿島神宮との関係が記される
1604年徳川家から鹿島神宮領から14石が給される
1868年当社に勅使が派遣される
1871年再び当社に勅使が派遣される
1877年近代社格制度において県社に列する
1722年華麗な社殿が造営される
1847年神門が造営される
1960年社殿が火災で焼失する
1963年現在の鉄筋コンクリート造りの社殿が再建される
1973年「忍潮井」が河川改修のため移転される

公開日:2024.07.12