日本歴史改方

高知城

高知城は高知県高知市に位置する日本の城で、「鷹城」とも呼ばれます。江戸時代には土佐藩の藩庁が置かれ、現在も残る天守は江戸時代に築かれた。本丸御殿や追手門なども現存しており、城跡は国の史跡に指定されている。

歴史・出来事

戦国時代以前には大高坂山城が築かれており、最初の築造は南北朝時代に行われた。しかし、土佐の戦国大名である長宗我部元親は1588年に岡豊城からこの城へ本拠地を移そうとしたが、低湿地の山麓で工事が難航。その代わりに、浦戸城が選ばれた(一部異説もあり)。

長宗我部氏は関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与し、改易された。その後、1601年に山内一豊が土佐国を与えられて土佐藩を立てた。一豊は大高坂山で築城を始め、1603年に本丸や二の丸が完成したが、城全体の完成は1611年であり、これは一豊の没後で二代目藩主の忠義の代になる。城内には3層6階の天守があり、一豊はこの天守を加増・転封前に居城としていた掛川城(静岡県)を模して建てたと言われている。最初は河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、後に高智山城と改名され、現在の城名となった。

江戸時代初期の建物は1727年の大火でほとんどが焼失し、再建には1753年までの四半世紀を要した。現在残る天守は1749年に建造されたものと推測されている。

西暦出来事
1338年大高坂山城において、大高坂松王丸が居城する
1341年松王丸は北朝方の細川禅定や佐伯経定との戦いで敗北し、大高坂山城は落城する
1587年長宗我部元親が九州征伐から帰国後、大高坂山に再び城を築く
ただし、一部の説では元親が1585年に既に大高坂を本拠地としていたとする見解もある
1591年元親は水はけの悪さを理由に大高坂山城を捨て、浦戸の浦戸城を改修して居城とする(二次資料により異説あり)
1601年関ヶ原の戦いで盛親が改易され、山内一豊が掛川城から移り、土佐一国24万2千石を与えられて浦戸城に入る浦戸城の城下町開発には狭いため、一豊は大高坂山の地に新城を築くことを決定
1601年一豊は大高坂山に新城を築く計画を始動百々綱家の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、百々を総奉行に任じて築城と城下町整備を委ねる
1601年百々は大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らを率いて、大高坂山に本丸の造営と城下町の整備に着手工事には山内家家臣団や専門の職人、大坂からの雇用工も参加し、1200人を超える労働者が参加した
1603年本丸と二ノ丸の石垣が完成
1603年本丸が完成し、一豊が河中山城として入城する
1610年水害を受けたことで忠義が河中の表記を変更し、高智山城と改名
1611年三ノ丸が完成し、高知城の縄張りが全て完成
1727年大火により城のほとんどが焼失
1729年豊敷が城の再建を始める
1749年天守ほか櫓・門などが完成
1753年再建が完了
1873年廃城令により高知城が廃城となり、高知公園として整備されるこの際、現存建造物以外の建造物が破却される
1910年長岡安平によって公園化される
1934年天守など15棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される
1945年高知大空襲により被害を受ける
1950年天守など15棟が文化財保護法の施行により国の重要文化財に指定される
1959年国の史跡に指定される
2006年日本100名城(84番)に選定される
2015年追手門の石垣と狭間の修理工事が行われる
2020年天守高欄の改修が着工される(2021年に終了予定)

公開日:2024.05.11