日本歴史改方

丸岡城

福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城。別名霞ヶ城。江戸時代には丸岡藩の藩庁であった。現存12天守の一つ。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。

霞ヶ城の名の由来は、合戦時に大蛇が現れ霞吹き、白を隠したという伝説による。

お静人柱伝説

丸岡城の建設中、天守台の石垣が崩れる現象が続き、工事が進まなかった。人々は神や悪霊の仕業と考え、人柱を立てれば治まるのではないかと提案した。その人柱として選ばれたのが隻眼のお静だった。お静は自らの命を差し出す代わりに、子供を武士に取り立ててもらうことを条件にした。お静が埋葬された後、石垣の崩れが止まったという。しかし、お静の子は武士に取り立てられなかったため、お静は怨霊となり、毎年藻刈りの時期に春雨を降らせ、堀の水を増やして人々を困らせた。人々はお静を鎮めるために小さなお墓を建て、彼女の霊を慰めたと伝えられている。

歴史年表

西暦出来事
1576年柴田勝家の甥である勝豊によって築城され、丹羽長秀の所領となる
1582年本能寺の変後、清洲会議により勝豊が近江国長浜城に移され、安井家清が城代として置かれる
1583年柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされ、丹羽長秀の所領となり、青山宗勝が丸岡城主として配置される
1600年関ヶ原の戦い後、丸岡城は結城秀康の支配下に入り、今村盛次が城主となる
1612年越前騒動に連座した今村盛次が失脚し、本多成重が新たな城主となる
1624年松平忠直の不行跡により福井藩から独立し、本多成重が丸岡藩の初代藩主となる
1695年本多家でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易され、有馬清純が丸岡藩の6代目藩主となる
1871年廃藩置県により廃城となり、天守以外は全て解体・破棄される
1901年残された天守は丸岡町により買い戻され解体を免れ、城跡は公園となる本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅する
1934年1月30日:天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される
1948年福井地震のために倒壊
1950年文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される
1955年倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直して修復される
1990年「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定される
2006年日本100名城(36番)に選定される
2023年丸岡城で実施されるプロジェクションマッピングやライトアップを水力発電による電力で賄うプランが坂井市と北陸電力から発表される

探索の感想

現存する天守12のうちの1つ。笏谷石で作られた屋根が特徴的。豪雪地帯に建てられているため、普通の瓦では割れてしまうとのこと。石瓦は約6,000枚も使われている。
2024年に丸岡城誕生400年記念のプロジェクションマッピングが行われる。

公開日:2024.05.04