日本歴史改方

松山城

松山城は、愛媛県松山市にある日本の城です。別名は金亀城や勝山城とも呼ばれます。松山城という名前の城は、備中松山城(岡山県高梁市)など他の現存する12の天守の一つでも見られます。本城は「伊予松山城」とも呼ばれますが、松山市に位置していることから、単に「松山城」と言えば一般的には本城を指します。

概要

山頂には、本丸があり、西南麓には二之丸と三之丸が配置されており、この城は、日本三大平山城のひとつに数えられている。山頂の本壇には、日本に現存する12箇所の天守の一つである大天守が建っている。この天守は、姫路城と同じく連立式であり、日本三大連立式平山城の1つにも該当する。1933年頃まで、本丸部分には40棟の建造物が存在していたが、1949年までに火災で19棟が失われ、現在は21棟が残っている。

西暦出来事
1602年関ヶ原の戦いでの戦功により、伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明の領地が20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、平山城の築城に着手した
1603年加藤嘉明がこの地を「松山」と命名し、地名が公式に誕生
1619年武家諸法度違反により福島正則の改易により、加藤嘉明が広島城受領のため松山を離れる
1627年加藤嘉明が会津藩へ転封となり、蒲生忠知が松山藩主に就任
1634年忠知が死去し、蒲生家が断絶
大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かる
1635年松平定行が15万石の藩主となり、松山城に居城
1642年定行が天守を3重に改築
1784年天守を含む本壇の主な建物が落雷により焼失
1854年第12代藩主勝善が大天守以下、本丸本壇を再建
1868年土佐藩が松山城を受領・保護し、藩主定昭は常信寺に謹慎したが、翌年に赦免される
1870年失火により三之丸が焼失
1871年廃藩置県により松山藩から松山県となり、さらに失火により二之丸が焼失
1873年廃城令により大蔵省、内務省の所管となり、主に麓の建物が城外に払い下げられる。愛媛県が成立
1874年本丸一帯が聚楽園として公園になる
1886年〜1945年二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊が駐屯
1891年俳聖正岡子規が「松山や 秋より高き 天主閣」という俳句を発表
1895年正岡子規が「春や昔 十五万石の 城下哉」という句を詠む(JR松山駅前に句碑がある)
1923年松山城(本丸)が旧藩主家の久松家に払下げられ、その後松山市に寄贈され、松山市の所有となる
1933年松山城放火事件により大天守を除く本壇の建築物が焼失
1935年天守など35棟の建造物が国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)に指定される
1945年松山空襲で天神櫓など11棟が焼失
1949年精神病患者のたき火により筒井門とその東続櫓、西続櫓の3棟が焼失し、旧国宝指定が解除される
1950年焼失をまぬがれた天守など21棟の建造物が国の重要文化財となる
1952年二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定される
1955年ロープウェイとリフトが設置され、登城客の利便を図る。松山市を代表する観光地となる
1968年1933年に焼失した本壇の建造物群が木造により復元される
1989年松山城山公園が日本さくら名所100選に選定される
1992年松山城二之丸史跡庭園が落成
2004年大天守など6棟の改修工事が始まる
2006年改修工事が終了し、大天守の「しゃちほこ」に「天丸」と「まつ姫」の愛称が公募によって付けられる
江戸時代の侍の落書きが発見され、天守内に展示される
2006年松山城山公園が日本の歴史公園100選に選定される
2006年日本100名城(81番)に選定される
2007年松山城が美しい日本の歴史的風土100選に選定される
2008年松山城観光案内図の配布開始
2009年ミシュラン観光版(ギード・ベール)日本編で二つ星に選定される
2014年三之丸跡で『亀郭城秘図』と合致する石垣跡が発見され、トリップアドバイザーの「行ってよかった! 日本の城ランキング2014」で2位に選ばれる
2019年小天守など9棟が登録有形文化財に登録される

公開日:2024.05.15