日本歴史改方

新田金山城

群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、全山アカマツに覆われた金山にあった日本の山城。戦国期、関東七名城の一つとされていた金山城。数々の城主を守り抜いてきた難攻不落の名城は、復元されてその姿を現代に伝えている。

歴史・出来事

金山城は、1469年に新田氏の一族である岩松家純によって築かれた。標高239mの金山山頂を中心に、西城、北城、八王子山ノ砦の4つの曲輪を堀切や土塁で守る難攻不落の山城である。

戦国時代の関東の山城に本格的な石垣がないとされていた定説を覆す、石垣や石敷きが多用された城でもある。城主や家臣団の館が山麓にあり、根小屋(城下町)を形成していたとされる。新田氏は北条氏の進出によりその傘下に入ったが、1590年に北条氏が滅亡すると無血開城し、廃城となった。

年表

西暦出来事
1469年金山築城の地鎮祭が執り行われる
新田一族であった岩松家純が五十子陣を退き金山城に入る
1528年横瀬泰繁・成繁親子が城主の岩松昌純を殺し、実権を握る
1565年横瀬成繁が由良に改姓
1574年由良成繁が上杉謙信の軍と金山城にて戦う
1580年武田勝頼が新田・館林地域を攻撃
1584年由良国繁・長尾顕長兄弟は後北条氏に従わないことを理由に糾明され、母妙印尼を中心に一族家臣含め金山城に籠城するものの、同年春までに開城し、後北条氏に降伏したと考えられている
1585年由良国繁、桐生城に退く
1587年後北条氏、金山城の普請を終わらせるよう命じる
1590年豊臣秀吉の小田原征伐に際して、秀吉家臣の前田利家らが金山城を接収
同年に北条氏照・氏政を自害させた後、秀吉は由良氏に常陸国牛久に知行5,435石を与え、城主を失った金山城は廃城となった
1613年徳川家康、遠祖と自称していた新田義重の供養のため金山南麓に大光院を建立
1629年館林藩主榊原忠次、金山の松茸を初めて江戸幕府に献上
以後1867年まで毎年続けられる
1688年金山が幕府直轄林となる
1701年金山城の遺構が詳細に記された、元禄太田金山絵図が描かれる
1934年「金山城跡」として国の史跡に指定された
2006年日本100名城(17番)に選定された
2009年史跡金山城跡ガイダンス施設・太田市金山地域交流センターが開館

公開日:2024.05.21