日本歴史改方

若松城(鶴ヶ城)

若松城は別名鶴ヶ城。地元ではこの名で呼ばれることが多い。会津藩の政庁として会津の政治の中心であった。幕末、会津松平家は徳川家と密接な関係にあり、戊辰戦争では激戦地となった。若松城は崩れてしまい、現在の天守復元されており鉄筋コンクリートになっている。

出来事

1384年、蘆名直盛によって小田垣の館または東黒川館と呼ばれる建物が建てられ、これが若松城の始まりとされる。戦国時代中後期には、蘆名氏の盛氏が台頭し、黒川城を中心に大きな勢力を築いた。

伊達政宗は1589年、蘆名氏との戦いを続けていたが、豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻撃し、蘆名氏を滅ぼして黒川城を手に入れた。その後、秀吉に臣従し、会津を与えられたが、伊達政宗は米沢城に本拠を戻し蒲生氏が入城した。

1868年、戊辰戦争では、激戦地となり、新政府軍の容赦ない砲弾を浴びました。会津藩が組織した白虎隊は有名ですが、玄武隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。板垣退助の降伏勧告を受託して開城した。

年表

西暦出来事
1384年蘆名氏7代当主・蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館を造るり、これが若松城のはじまりとされる
15世紀半ば黒川城とその城下が成立し、代々蘆名氏の城となる
戦国期半ば蘆名盛氏が黒川城を中心に広大な版図を築く
1589年伊達政宗が豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手に入れる
1590年政宗は秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻す
1592年蒲生氏郷が黒川城に入り、大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備する。町の名を「黒川」から「若松」に改める
1593年望楼型7重の天守が竣工し、「鶴ヶ城」に改められる
1598年蒲生氏郷の子・秀行が家中騒動のために下野国宇都宮に移封される。上杉景勝が120万石で若松城に入封
1600年徳川家康が関ヶ原の戦い後、上杉景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封する
1601年蒲生秀行が再び若松城に入城する
1627年秀行の嫡男・忠郷の嗣子がなく没したため、次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封され、代わって伊予松山より加藤嘉明が入封し、子の明成が天守を層塔型に再建する
1643年加藤明成が改易され、保科正之が23万石で若松城に入封し、会津松平家の居城となる
1868年会津戦争が起こり、新政府軍が会津勢の立て篭もる鶴ヶ城を包囲し砲撃を開始し、1か月間の籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾し、9月22日に鶴ヶ城が開城される
1873年1月、明治政府が全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)を発布し、若松城は存城処分とされ、陸軍省の所管となる
12月、若松県権令沢簡徳が政府に城郭建造物の取壊しを建言する
1874年1月、陸軍省から仙台鎮台へ旧若松城の建造物の取壊しを命じる通達が行われ、同年末までに、天守を含む建造物が解体される
1870年本丸にあった櫓の一つである「御三階」が阿弥陀寺に移築される
1930年福島県は城跡の緊急保存を国に申請し、仮指定される
1934年文部省告示第312号によって、城跡が国の史跡に本指定される
1947年本丸内に競輪場が設置される
1957年競輪場が城外に移転される
1960年本丸が現在の形状に復旧される
1965年鉄筋コンクリート造りの天守閣が再建される
内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開される
1990年茶室「麟閣」が本丸の元の場所に移築復元される
「鶴ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定された
1993年外濠跡等の外郭遺構の一部が国の史跡に追加指定される
1997年「史跡若松城跡総合整備計画」が策定される
2001年本丸内の干飯櫓と南走長屋が木造で復元される
2006年4月6日、日本100名城(12番)に選定された
2010年天守の屋根瓦を赤瓦葺に復元する工事が始まる
2011年天守の屋根瓦復元工事完了
東日本大震災が発生
天守閣がリニューアルオープン

探索の感想

戊辰戦争での激戦は白虎隊の話でとても有名である。若松城天守閣郷土博物館には若松城の歴史が飾られている。敷地の大きさから会津松平家の権威が感じられる。現在は鶴ヶ城公園となり観光客で賑わっている。

公開日:2024.04.12