日本歴史改方

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活鯛御用神奈川沖浪裏の押送舟

文政八年(一八二五)の春だった。

十一代将軍・徳川家斉いえなりの息女盛姫が、佐賀藩主・鍋島斉直 の子息斉正のもとに、お輿入れすることが決まった。鍋島家の十七男・斉正は十二歳(後の直正)、将軍家斉の十八女盛姫は十歳と若かった。幼い姫様をおなぐさめしようと、江戸城の大奥では雛祭を兼ねた祝いの宴が催されることにな った。

幕府の宴で供される鯛の御用達をつとめる和田屋正十郎のもとには、いつものように肴役所さかなやくしょから活鯛御用いけだいごよう の知らせが届く。鯛といえば真鯛のことだった。正十郎はいくつかある持浦の中から、この季節、真鯛を集めるのに足回りのよい上総木更津浦を選んだ。慎重な正十郎は、集められた活鯛が木更津から間違いなく、約束通り届けられるように、ある策を講じた。


上総木更津浦は江戸の内海に面し、南北に弧を描いたような浜だった。

村は南片と北片に分かれ、それぞれに南割と北割の船着場がある。

北割の桟橋に一隻の押送舟が繋がれている。

北片の船持・宮地屋久六の弁六丸だった。

鮮魚を運ぶ押送舟は、速度が出るように細長く、波切りのよい舟首をしている。帆を上あげることも、櫓で漕ぐこともできる。棚板の下には生簀がしつら えられ、舷側には穴が開いており、海水が出入りできるので、魚を生きたまま運ぶことができた。

北割に男が足早にやってくる。

北片の弁六丸の船頭をつとめる源助だ。

どこからともなく海鳥が集まってくる。源助は上空をちらっと見てから遠浅の海に入る。水はまだ冷たいが、それを物ともせず、しぶきを上げながら進んでいく。その先に簀を張って作った生簀がある。生簀のなかには三十数枚の活鯛が入っている。内海だけでは数が揃わなかったので、船主の宮地屋が外海からも買い集めたものだった。
「上がりはないな」

真鯛の元気な姿に、源助は満足そうに頷いた。

そこに男たちが次々とやってくる。七丁櫓の押送舟を漕ぐ水手かこたちだ。漕手たちの配置は、一組二人が左右に並び、舳先へきさから ともへ、い組・ろ組・は組の三つに分かれる。舵座には船頭の源助が座り、舵と櫓を受け持ち、総勢七人となる。
「太一はどうした?」

源助は海から上がり、ろ組の左舷を受け持つ太一がまだ来ていないことに気づいた。
「太一の奴、何をもたもたしてんだ」

正次は太一と並んで、ろ組の右舷を受け持つ漕手だった。
「来たぞ!」

い組の左舷を受け持つ惣兵衛が、走ってくる太一を見つける。
「太一、遅れちまうぞ!」

は組の右舷を担う八十吉が怒鳴った。
「すまねえ!」

太一は息を弾ませている。昨夜は生まれたばかりの息子がぐずり、寝過ごしてしまったのだ。
「皆、揃ったな」

六人の水手が揃い、源助はまた浅瀬の海に入っていく。
「さあ、かかるぞ!」

源助の合図で、水手たちもタモ網を手に、海の生簀に降りてくる。

活鯛は尾びれを叩きながら勢いよく跳ねまわっている。

皆で活鯛を引き上げ、押送船の生簀に移し替えようとするが、活鯛は逃げ回り、なかなかタモ網の中に入ってくれない。
「あっ、いけねえ!」

正次がタモ網から活鯛を生簀の外に落としてしまう。すぐに、すくい上げようとするが間に合わず、活鯛を一匹、海に逃がしてしまった。
「馬鹿野郎、なにしてんだ!」

源助が声を荒げる。江戸からの注文は活鯛三十枚だ。生簀には三十数枚を確保しているので心配はないが、丁寧に扱わねばならない。

海鳥の群れが上空から生簀の様子を窺っている。

活鯛はタモ網に入っても暴れまわり、二人がかりで慎重に押送舟の生簀へと運ぶ。舟の生簀は木枠で六つに区割りされている。そこに、活鯛を五匹ずつに分けて入れていく。

突然、一匹の真鯛が尾を板壁に寄せ、動かなくなった。狭い舟の生簀に入れられ、怯えているのだろう。源助が手で海水をかき回すと、驚いたように飛び跳ねた。

三十枚の活鯛を舟の生簀に移し終えると、源助たちはすぐに押送舟に乗り込んだ。
「行くぞ!」

源助が舵座から元気に叫ぶと、左右の舷側で六丁の櫓が一斉に海面を切り、男たちの掛け声が北割に響き渡る。
「エンヤー、エンヤーヨ、エンヤーコーノ!」

押送舟は、浅瀬に掘られた一澪道ひとみおみちをゆっくりと進んでいく。ここだけは、潮が引いても、水路が確保されていた。

群れから離れた一羽の海鳥が、押送舟を追って付いてくる。
「江戸まで、まっしぐらだ!」

源助は舵と櫓を器用に操りながら、水手たちに気合いを入れる。

夕刻までに江戸に着かなくてはならない。木更津から江戸までは海上九里(約三十六キロ)だった。順風下の帆走なら六、七時間ほどで着くこともあるが、櫓走だけだと夜までかかることもある。風は無く、帆柱はまだ寝かしたままだった。

―南片の押送舟はもう出ただろうか。

源助が後ろを振り返ると、少し離れた南割には、まだ一隻の押送舟が留まっている。

―まだ、出てないぞ!

源助はにやりとした。

後を付けていた海鳥が、いつの間にか消えている。

朝日が昇り、海は目映い光を放っている。左手にはまだ雪を頂く富士山が雄々しい姿を見せる。ここから望む白い富士山が、源助は好きだった。
「しばらく、櫓走だな」

源助が呟いたとき、背後から掛け声が近づいてくる。
「エンヤー、エンヤーヨ、エンヤーコーノ!」

源助が振り返ると、南片の押送舟だった。
「源助、先を越せると思ったら、大間違いだぞ!」

南片の船頭・平吉が叫んでいる。
「かなり、ぶっ飛ばしてきたじゃねえか!」
「ぶっ飛ばしてるのは、おめえの方だっぺ」

北片と同じ七丁櫓の押送舟で、南片の船持・太見屋善兵衛の清吉丸だった。棚板下の生簀には、船主の太見屋が買い集めた活鯛が、同じように三十枚入っている。
「平吉、おめえにしては、出足が遅かったな」
「ちと、遅れただけよ、どうってことはねえ」

平吉は余裕の表情を見せる。出立の間際に、水手の一人が体の調子が悪くなり、代わりの水手を手配するのに手間取り、出遅れてしまったが、櫓さばきの達者な者を揃えているので心配していない。北片の船にこうして追いつくことができたのだ。
「平吉、鯛三十枚は揃ったのか?」
「あったりめえよ」

ここに入っていると言わんばかりに船端を叩くと、
「勝負は、こっちのいただきだな」

平吉は自信たっぷりだった。
「そいつはどうかな」
「おめえも、言うじゃねえか」
「まだ始まったばかりだぞ」

源助も負けずに言い返した。

二隻の押送舟は、江戸の魚問屋・和田屋正十郎から活鯛の注文を受け、どちらが先に届けるかを競っていた。和田屋は早く間違いなく届けさせるために、南片と北片の水手を競わせ、勝った方には活鯛の代金に二割加えたものを支払うと約束していた。これは船持とは関係なく、和田屋が直接、水手たちに払ってくれることになっている。特別な手当がもらえるとあって、此度は水手たちの意気込みが違うのだ。
「平吉、活鯛は生きたまま届けるんだぞ」
「そんなこと、おめえに言われるまでもねえ。ぜんぶ、ぴんぴんしてらぁ!」

その間も二隻の水手たちは黙々と櫓を漕いでいる。
「海の上では、何が起こるか分からねえからな」
「そいつは、こっちのせりふだ」

平吉が薄ら笑いを浮かべ、水手たちに目くばせすると、南片の清吉丸は、北片の弁六丸を追い抜いていく。それを見た北片の水手たちも負けじとばかりに力を入れて漕ぎ出した。

南片と北片の押送舟には普段から積荷をめぐる争いがあった。和田屋正十郎は活鯛を早く届けさせるために、そうした対立を利用したのだ。

北片の押送舟が前に出ると、南片の押送舟が追いかけてくる。二隻は抜きつ抜かれつを繰り返し、また並んで漕いでいる。
「まあ、互いに頑張ろうぜ!」

源助が言葉をかけた。
「利いた風なことを、ほざきやがって」
「相変わらずの減らず口だな」

源助は何度、平吉に積荷を横取りされたかわからない。それを咎めると、今度だけは見逃してくれと、手を合わせて哀願する。見逃してやれば、その舌の根も乾かぬうちに、また同じことを繰り返す。いつも散々な目にあわされている。この競り合いで南片に勝って、平吉の鼻を明かしてやりたい。そんな思いを抱いていると、不意を衝くように、平吉たちの船がまた飛び出した。
「エンヤー、エンヤーヨ、エンヤーコーノ!」

源助たちの押送舟を振り切るように追い越していく。

北片の水手たちは、南片の押送舟に追いつこうとするが、その差は広がるばかりだった。
「がむしゃらに漕ぐな、顎を出しちまうぞ」

源助は、水手たちに競り合うことをやめさせた。平吉たちとは距離を保ちながら、様子を見ることにする。あの調子で突っ走れば、必ず途中で疲れてしまう。そのときが好機と源助は考えた。水手たちの体力を消耗させないように、そのときのために力を蓄えて置くことにした。しばらく行くと、前方に大きな船が見えた。
「木更津船だな」

昨夜、江戸を発ち、昼前に木更津に着く船だった。

幕府は大阪の陣で徴発した木更津の水手たちに、功労として江戸から上総・安房への回漕権を与えていた。それが木更津船だった。
「風待ちだろう」

木更津船は帆走船のため、凪になると進むことができなくなる。海上でよく立ち往生することがある。
かしら、あれは―」

ろ組の左舷漕手の太一が気づく。
「北片の木更津船でやすよ」

太一は一番若く、遠目が利く。
「どうしたんだ?」

源助が目を凝らすと、先に行った南片の平吉たちが木更津船に呼び止められている。

木更津船の船頭が身を乗り出し、平吉に何事かを告げているが、平吉は駄目だというように手を振っている。木更津船の船頭は、それでも必死に何かを告げている。平吉はそれを突っぱね、木更津船から離れようとした。すると、木更津船の船頭が棹を持ち上げ、平吉たちの押送舟を引き寄せる。平吉は船に棹を入れられ、船頭の持っている棹先をつかんで海に放り投げた。

それを見た木更津船の二人の水手も黙っていない。一人が海水を桶で汲み上げると、それをもう一人が舷側の棹走りに立って、平吉めがけてぶちまけた。平吉は全身ずぶ濡れになった。
「何をもめているんだ」

源助たちの押送舟からは遠すぎて、何を言い合っているのか聞こえない。平吉のことだから悪態を付き、木更津船の船頭を怒らせてしまったのだろう。そんなところだろうと源助が思っていると、平吉たちは押送舟を漕ぎ出し、木更津船から離れて行った。