日本歴史改方

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活鯛御用神奈川沖浪裏の押送舟

「お〜い、源助!」

木更津船の船頭は熊造だった。今度は源助たちを呼び止める。
「どうしたんでやすか?」

源助たちの押送舟が近づくと、
「どうもこうもねえ、平吉の野郎!」

熊造は怒りがまだ収まらないようだ。
「何があったんですかい」

それには答えず、熊造はとんでもないことを言い出す。
「源助、産婆を連れて来てくれ!」
「産婆?」
「女客に、ややこが産まれそうなんだ」
「ややこが?」
「ああ、頼むよ!」
「手伝えるような女客は乗ってねえのか」
「いねえから頼んでんだよ」
「それで、平吉ともめてたのか」
「あの野郎、御用鯛を運んでいるんだと、断りやがった」
「御用鯛は、こっちも積んでるぜ」
「大事な、お役目はわかるが、赤子の命と母親の命がかかってるんだ」
「参ったな」

活鯛を運んでいる途中だ。御用をないがしろにすることはできない。
「平吉の奴、北片の木更津船なんだから、後から来る北片の源助に頼めと、捨てぜりふを吐いて行っちまった」
「あいつ、海の上で、よくもそんなことを」
「早く、産婆を連れて来てくれ!」
「産婆を呼んでこいと言われても」

源助もすぐには答えられない。
「ここは目をつぶって、もたもたしてると、南片に負けちまうよ!」

ろ組の右舷漕手の正次が言葉を挟む。
「正次じゃねえか、おめえ、いたのか」

熊造がほっとしたような声を出すと、
「おれがいて、悪いか!」正次がむっとする。
「悪いどころか、大助かりよ」
「なぜだ?」
「産気づいているのは、おめえの妹だからな」「なんだって?」

正次がぎょっとなる。

そのとき、木更津船から苦しそうな女の悲鳴がする。その声を聞くと、正次は恥も外聞もなく、妹の名を呼ぶ。
「とめ!、とめ!」

兄正次の声を聞き、とめは船窓から顔を出す。
あにさん!」
「とめ、でえじょうぶか!」
「あ〜っ、う〜ん!」
「苦しいか?」
「兄さん…産婆を、産婆さんを連れきて」

正次は猿のごとく、押送舟から木更津船に乗り移る。

正次の妹とめは、江戸の大工のもとに嫁いでいた。子を産むために木更津へ戻ってくる途中、船に揺られて、産み月よりも早く産気づいてしまったのだ。
「源助、とめは正次の妹だ、助けてやれ!」

熊造が叫んでいる。

あたりに舟は一隻もいない。平吉たちの押送舟は遠ざかり、舟影も小さくなっている。自分たちが木更津浦に引き返せば、その差は広がるばかりだ。どんなに頑張っても、もう遅れを取り戻すことはできないだろう。産婆を呼びに行くことは平吉たちに負けることだ。
「追々、風も吹くだろうし」

風が出れば、木更津船は進むことができる。
「赤子は風待ちなど、してくれねえぞ」
「それはわかってる」

源助も二人の子持ちだ。
「こっちの押送舟で、とめさんを運んだ方が早くねえか」
と持ちかける。
「身重の女を移すのは無理だ。それに、もし、そっちの押送舟の中で、ややこが産まれたらどうする?」
「それは―」

確かに、熊造の言うとおりだ。やや子が途中で産まれるかもしれない。御用鯛を運んでいる押送舟で、子を産ませるのはまずい。だからといって、正次の妹を見捨てることはできない。産婆を呼びに木更津へ戻るか、平吉のように無視して江戸へ行ってしまうか。二つに一つだ。源助は船頭としての決断を迫られる。
「子はそう簡単に、生まれねえよ」

太一は女房が子を産むまでに、間があったことを思い出す。
「そうだぜ、赤子は生まれるときは、生まれるもんだ」

い組右舷の久五郎も慌てることはないと言う。
「だけんど、やっぱし、放っては行けねえっぺ」

久五郎と並ぶ、い組左舷の惣兵衛が情を見せる。
「気の毒だが、鯛は早く運ばねえと」

は組右舷の八十吉は、自分たちの仕事は積荷を守ることだと、産婆を呼びに行くことに消極的だった。
「鯛が、活鯛じゃなくなっちまうしな」

は組左舷の甚平も、八十吉と同じ考えだった。は組の二人は水手としての豊富な経験があり、押送舟の速度を調節する重要な役割を担っている。
「そうだよな、活鯛を早く届けねえと、もらえるものが、もらえなくなる」

太一がぼやいた。

そのとき、「あ〜っ、う〜ん!」と、うめき声がまた聞こえてきた。

船室のなかでは、とめが痛みをこらえながら、「産婆のおすえさんを呼んできて!」と、正次に頼んでいる。妹の苦しげな様子に、正次は居ても立っても居られず、押送舟に引き返してくると、
「皆、すまねえ、木更津に戻ってくれねえか。手前勝手なことは、よくわかってる。すまねえ、妹を助けてくれ、頼む!」

正次の打って変わった態度に、水手たちは思わず顔を見合わせる。木更津へ産婆を呼びに行くかどうか、船頭の源助が決めることだった。

源助は、魚問屋の和田屋正十郎のことを考えていた。いつも青白い顔をし、見た目はひ弱な感じの人だった。此度の活鯛は、雛祭を兼ねた格別な祝事用だと聞かされている。心して運ぶようにと念を押されていた。大奥の姫様たちの雛祭も大事だが、生まれてくる赤子の命も大切にしなくてはいけない。とめが乗っている船は、北片の木更津船だ。仲間の正次の妹をほっとくわけにはいかない。源助は覚悟を決めた。
「よし、産婆を呼びに行こう」
「源助さん、すまねえ!」

正次がまた頭を下げる。正次にとって、源助とは親の代からの付き合いだった。
「皆、いいな」

源助が、は組の八十吉と甚平を見ると、二人は何も答えず、ただ軽く頷いた。
「みんな、すまねえ!」

正次はうっすらと涙を浮かべる。
「源助、もたもたしてる暇はねえぞ」

熊造のせっぱ詰まった声が飛んできた。
「わかってるぜ」
「産婆を呼んできてくれるんだな」
「ああ、待っててくれ!」

源助は力強く答えた。
「とめ、おすえさんを呼んでくるからな!」

正次が湿り声で叫んだ。