二
「お〜い、源助!」
木更津船の船頭は熊造だった。今度は源助たちを呼び止める。
「どうしたんでやすか?」
源助たちの押送舟が近づくと、
「どうもこうもねえ、平吉の野郎!」
熊造は怒りがまだ収まらないようだ。
「何があったんですかい」
それには答えず、熊造はとんでもないことを言い出す。
「源助、産婆を連れて来てくれ!」
「産婆?」
「女客に、ややこが産まれそうなんだ」
「ややこが?」
「ああ、頼むよ!」
「手伝えるような女客は乗ってねえのか」
「いねえから頼んでんだよ」
「それで、平吉ともめてたのか」
「あの野郎、御用鯛を運んでいるんだと、断りやがった」
「御用鯛は、こっちも積んでるぜ」
「大事な、お役目はわかるが、赤子の命と母親の命がかかってるんだ」
「参ったな」
活鯛を運んでいる途中だ。御用をないがしろにすることはできない。
「平吉の奴、北片の木更津船なんだから、後から来る北片の源助に頼めと、捨てぜりふを吐いて行っちまった」
「あいつ、海の上で、よくもそんなことを」
「早く、産婆を連れて来てくれ!」
「産婆を呼んでこいと言われても」
源助もすぐには答えられない。
「ここは目をつぶって、もたもたしてると、南片に負けちまうよ!」
ろ組の右舷漕手の正次が言葉を挟む。
「正次じゃねえか、おめえ、いたのか」
熊造がほっとしたような声を出すと、
「おれがいて、悪いか!」正次がむっとする。
「悪いどころか、大助かりよ」
「なぜだ?」
「産気づいているのは、おめえの妹だからな」「なんだって?」
正次がぎょっとなる。
そのとき、木更津船から苦しそうな女の悲鳴がする。その声を聞くと、正次は恥も外聞もなく、妹の名を呼ぶ。
「とめ!、とめ!」
兄正次の声を聞き、とめは船窓から顔を出す。
「兄さん!」
「とめ、でえじょうぶか!」
「あ〜っ、う〜ん!」
「苦しいか?」
「兄さん…産婆を、産婆さんを連れきて」
正次は猿のごとく、押送舟から木更津船に乗り移る。
正次の妹とめは、江戸の大工のもとに嫁いでいた。子を産むために木更津へ戻ってくる途中、船に揺られて、産み月よりも早く産気づいてしまったのだ。
「源助、とめは正次の妹だ、助けてやれ!」
熊造が叫んでいる。
あたりに舟は一隻もいない。平吉たちの押送舟は遠ざかり、舟影も小さくなっている。自分たちが木更津浦に引き返せば、その差は広がるばかりだ。どんなに頑張っても、もう遅れを取り戻すことはできないだろう。産婆を呼びに行くことは平吉たちに負けることだ。
「追々、風も吹くだろうし」
風が出れば、木更津船は進むことができる。
「赤子は風待ちなど、してくれねえぞ」
「それはわかってる」
源助も二人の子持ちだ。
「こっちの押送舟で、とめさんを運んだ方が早くねえか」
と持ちかける。
「身重の女を移すのは無理だ。それに、もし、そっちの押送舟の中で、ややこが産まれたらどうする?」
「それは―」
確かに、熊造の言うとおりだ。やや子が途中で産まれるかもしれない。御用鯛を運んでいる押送舟で、子を産ませるのはまずい。だからといって、正次の妹を見捨てることはできない。産婆を呼びに木更津へ戻るか、平吉のように無視して江戸へ行ってしまうか。二つに一つだ。源助は船頭としての決断を迫られる。
「子はそう簡単に、生まれねえよ」
太一は女房が子を産むまでに、間があったことを思い出す。
「そうだぜ、赤子は生まれるときは、生まれるもんだ」
い組右舷の久五郎も慌てることはないと言う。
「だけんど、やっぱし、放っては行けねえっぺ」
久五郎と並ぶ、い組左舷の惣兵衛が情を見せる。
「気の毒だが、鯛は早く運ばねえと」
は組右舷の八十吉は、自分たちの仕事は積荷を守ることだと、産婆を呼びに行くことに消極的だった。
「鯛が、活鯛じゃなくなっちまうしな」
は組左舷の甚平も、八十吉と同じ考えだった。は組の二人は水手としての豊富な経験があり、押送舟の速度を調節する重要な役割を担っている。
「そうだよな、活鯛を早く届けねえと、もらえるものが、もらえなくなる」
太一がぼやいた。
そのとき、「あ〜っ、う〜ん!」と、うめき声がまた聞こえてきた。
船室のなかでは、とめが痛みをこらえながら、「産婆のおすえさんを呼んできて!」と、正次に頼んでいる。妹の苦しげな様子に、正次は居ても立っても居られず、押送舟に引き返してくると、
「皆、すまねえ、木更津に戻ってくれねえか。手前勝手なことは、よくわかってる。すまねえ、妹を助けてくれ、頼む!」
正次の打って変わった態度に、水手たちは思わず顔を見合わせる。木更津へ産婆を呼びに行くかどうか、船頭の源助が決めることだった。
源助は、魚問屋の和田屋正十郎のことを考えていた。いつも青白い顔をし、見た目はひ弱な感じの人だった。此度の活鯛は、雛祭を兼ねた格別な祝事用だと聞かされている。心して運ぶようにと念を押されていた。大奥の姫様たちの雛祭も大事だが、生まれてくる赤子の命も大切にしなくてはいけない。とめが乗っている船は、北片の木更津船だ。仲間の正次の妹をほっとくわけにはいかない。源助は覚悟を決めた。
「よし、産婆を呼びに行こう」
「源助さん、すまねえ!」
正次がまた頭を下げる。正次にとって、源助とは親の代からの付き合いだった。
「皆、いいな」
源助が、は組の八十吉と甚平を見ると、二人は何も答えず、ただ軽く頷いた。
「みんな、すまねえ!」
正次はうっすらと涙を浮かべる。
「源助、もたもたしてる暇はねえぞ」
熊造のせっぱ詰まった声が飛んできた。
「わかってるぜ」
「産婆を呼んできてくれるんだな」
「ああ、待っててくれ!」
源助は力強く答えた。
「とめ、おすえさんを呼んでくるからな!」
正次が湿り声で叫んだ。