三
船が木更津浦の一澪道に戻ると、正次が浅瀬の海に飛び出した。
「おすえ婆さんを呼んでくる」
「おれも行く!」
太一が後を追った。
「よし、おれも行こう!」
源助は、弁六丸でじりじりしながら待っているより、産婆を一刻も早く木更津船に連れ行けば、それだけ早く江戸へ向かうことができると思った。い組の久五郎と惣兵衛を連れ、正次と太一の後を追った。活鯛を積んだ押送舟を、そのままにしては行けないので、は組の八十吉と甚平を押送舟に残した。
―おすえ婆さん、留守でないといいが。
源助は、おすえ婆さんが家にいることを祈り、皆で担いでくることにした。
おすえ婆さんの家は、浜通りから一本入った路地裏にあった。
いまは息子夫婦と暮らしている。若い頃から産婆をし、北片で生まれた赤子のほとんどは、おすえ婆さんが取り上げていた。太一の生まれたばかりの息子も、おすえ婆さんの世話になった。
「おすえさん、いるかい」
先に着いた正次と太一が、同時に声を上げた。
「おっかさんは留守だけど」
突然、二人の男が現れ、嫁のふさが驚いている。
「弱ったな」
留守と聞いて、正次がおろおろする。
「いったい、どうしたんです?」
嫁のふさに尋ねられ、太一が代わって答えた。
ふさは、正次の妹が木更津船で産気づいたことを知ると、おすえ婆さんは昨日から娘のところに遊び行っていると言った。
源助らも駆けつけた。久五郎は天秤棒を担ぎ、惣兵衛は盤台を抱えている。
「娘さんのところか」
源助も娘の家なら知っている。ここから一丁ほど先だった。
「おすえさんを呼びに行こう!」
ぐずぐずしている暇はない。源助は赤子を取り上げるのに必要なものを揃えて置くようにと、嫁のふさに頼み、皆を引き連れて娘の家に向かった。
「いったい、何の騒ぎだい」
おすえ婆さんは源助たちを見ると、孫を膝から降ろした。濡れ縁で孫を遊ばせていたところだった。源助が事情を話し、木更津船で赤子を取り上げてくれと頼む。「船で赤子を?」
おすえ婆さんは躊躇する。
「頼む、一緒に来てくれ!」
自分たちが木更津船に連れて行くから心配することはないと、源助が安心させる。
「おすえさん、妹を助けてくれ!」
正次も必死に頼み込む。
「ちょっと、待ってくれ、急に言われても」
「赤子を取り上げるのに必要なものなら、嫁さんに頼んできた」
正次が、おすえ婆さんの家に寄って、嫁のふさから受け取ることになっていると、源助が説明する。
「手まわしがいいことだ」
おすえ婆さんは皮肉るが、すぐに身支度を始めた。
「さあ、行くぞ!」
源助の合図で、おすえ婆さんは久五郎と惣兵衛に軽々と持ち上げられ、盤台に入れられた。
「まるで、人さらいに連れて行かれるようだな」
おすえ婆さんが苦笑する。
久五郎と惣兵衛は、おすえ婆さんを乗せた盤台を天秤棒で担ぎ、脱兎のごとく、北割へと走っていく。
「まだ、なのかい」
おすえ婆さんは、弁天丸の舳先に座っている。
「もう少しだ」
正次が櫓を漕ぎながら言った。
「おらは、舟に弱いんだよ」
押送舟が波に乗ると舳先が上下し、おすえ婆さんは怖がっている。
「きょうは、風も強くねえし、しんぺえねえから」
正次は安心させようと、しきりに話しかける。だが、押送舟が速度を上げるたびに、おすえ婆さんは両手のこぶしを握りしめる。
「ほら、あそこに、木更津船が見えるだろう」
正次が顎先を使って方角を差すと、おすえ婆さんはしゃきっとした。
「とめさんは、あれに乗ってるのかい」
「ああ、そうだ」
「こんなことになるとは」
おすえ婆さんは何度も瞬きをする。これまで赤子をたくさん取り上げてきたが、船の上で取り上げるのは初めてだった。
「とめは持ちこたえて、くれるかな」
正次は初産の妹が心配だった。
「初産は遅れることが多いから、でえじょうぶだよ」
話しが出産に及ぶと、おすえ婆さんは落ち着いている。
「あっ!」
正次が素頓狂な声を上げると、
「脅かすなよ!」
おすえ婆さんにたしなめられる。
「とめが産気づいたことを、おっかあに知らせてこなかった」
「馬鹿抜かすな、おらをかっさらってきて、そんな暇、あったか?」
正次は一喝された。
「お〜い!」
木更津船から熊造が、早く来いと手を振っている。
「どうやって、乗り移るんだい」
おすえ婆さんの顔が引きつる。
「これにつかまってくれ」
熊造が船から縄ばしごを降ろし、
「棹走りに手をかけてくれ!」
手を伸ばして、おすえ婆さんを待っている。
「やめてくれ!」
おすえ婆さんの声が震える。
「みんなで、尻を持ち上げてやっから」
源助に尻と言われて、おすえ婆さんが慌てて着物の裾を足に巻き付ける。
「それじゃ、持ち上げてくれ」
棹走りに手が届くと、木更津船にいる熊造たちが、おすえ婆さんを引き上げた。その後を追って、源助と正次も乗り込んだ。木更津船には乗客が数人いた。
「おすえさん、これを」
正次が、嫁のふさから預かってきた風呂敷包みを渡すと、おすえ婆さんは奪い取り、船室へと下りていった。
―間に合ったか。
源助の顔から初めて笑みがこぼれる。そのとき、後ろに人の気配を感じ、源助が振り返ると、絵を描いている老人がいた。白く長い髭をたくわえた絵師だった。西の水平線をにらみつけ、見るからに大人といった風格だった。
老絵師は富士山を描いている。
かたわらには、源助たちの乗ってきた押送舟が、何枚も試し描きされていた。老絵師は木更津船の熊造らの騒ぎも眼中にないように、黙々と筆を動かしている。
船室から呻き声がする。
「ウ〜ウッ〜ウ〜」と、長く尾を引くような苦しげな声だった。
老絵師は筆を止め、耳をそばだてている。
「さあ、もう一度、力を入れて!」
おすえ婆さんの声が聞こえてくる。
―もうすぐだな。
源助は祈るような気持で手を合わせる。
老絵師の筆がまた動きはじめた。
源助が弁天丸に戻ると、先に降りた正次が待っていた。
「もうじき、生まれるぞ」
「そうでやすか」
正次はそう言うと、
「皆、ありがとよ」
一人一人に頭を下げた。
「さあ、仕事だ、仕事だ!」
源助は船頭の顔になる。
「活鯛はでえじょうぶか!」
生簀の蓋は水手たちの漕手座下にあった。六枚の蓋が次々と開けられ、それぞれが木枠の中を覗いている。
「親方、変わりはねえようです」
一斉に答えが返ってきた。
「そうか、無事か」
活鯛は生簀の中を動き回っている。
「念のために、海水を入れ替えよう」
生簀の海水を三分の一ほど掻い出し、新しい海水を生簀の中に少しずつ入れてやると、活鯛は活力を取り戻したように元気に跳ねまわる。
「しんぺえねえな」
源助が、ほっとしたときだった。
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
海の静かさを破るような赤子の泣き声が響く。
「生まれた!」
正次が喜びの声を上げた。江戸行きを強く主張した、は組の八十吉と甚平も、赤子の声を聞くと顔を見合わせ、安堵の表情を浮かべている。
「女の赤子だぞ!」
上から熊造が叫んだ。
木更津船の乗客たちは立ち上がり、源助たちの押送舟を見送っている。そのなかに、あの老絵師の姿もあった。