日本歴史改方

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活鯛御用神奈川沖浪裏の押送舟

木更津河岸は江戸橋南詰にあり、江戸と木更津浦を往来する木更津船の船着場だった。

南片の押送舟が到着した。平吉は和田屋を見つけると、すぐに舟から下りてくる。 「南片の清吉丸、ただいま着きやした」
「そうか、ご苦労だった」
「あっしらの方が、えようで」

平吉が得意気な顔をすると、
「活鯛の様子はどうだ、三十枚無事か、活きたまま、何枚運んできた?」

和田屋が畳みかけるように言った。
「二十六枚でごぜえます」
「ということは、四匹も上がっちまったのか」

和田屋に出端をくじかれ、平吉はちょっとたじろぐが、すぐに気を取り直す。
「二十六枚の活鯛は、ぴんぴんしてやす」
「予備は、たったの一枚じゃねえか」

活鯛三十枚、すべてが無事に届くとは正十郎も思っていない。運ぶ途中で失うことはよくあるからだ。それにしても、予備一枚は心もとない。活鯛は肴役所の生簀に一晩置き、翌日、お城へ届けるのだ。その間に上がってしまうこともあるので、予備は少しでも多い方がよい。頼みは、もう一隻の押送舟だ。
「ところで、北片の押送舟はどうした?」
「途中、何か手間取っていたようで」
「舟に不具合でもあったのか」
「いや、それではねえと思いますが」

平吉は曖昧に答える。自分たちが通り過ぎた後、源助たちも木更津船に呼び止められ、産婆を呼びに木更津へ戻ったどうかは分からないからだ。
「追っ付け、やってくるでしょう」
「それならよいが、あと何枚、届くかだな」

賄頭の木村伴次郎のことを考えると、正十郎はいらいらしてくる。

木村伴次郎は実直そうに見えるが、時には口やかましかったり、横柄だったり、つかみどころのない人物だった。北片の押送舟が二十五枚を下回れば、全部で五十枚揃わなくなるおそれがある。そんなことになったら、賄頭に何と言われるかわからない。それを思うと、また胃が痛くなる。
「それじゃ、活鯛は肴役所の生簀に運び込んでくれ」
「わかりやした」

押送舟の生簀から活鯛を肴役所の生簀に運ぶまでが、平吉たちの仕事だった。七人総出で活鯛を樽に移し、樽の紐に天秤棒を通す。それを二人掛かりで担いで運ぶ。樽には数匹しか入らないので、木更津河岸と肴役所の間を何度か往復することになる。最後の樽を運び出そうとしたとき、水手の一人が足を滑らせ、活鯛と海水の入った樽をぶちまけてしまった。
「ああ、なんてことをしてくれた!」

和田屋正十郎が駆け付けたとき、活鯛数匹が土の上を滑り、一匹が地面に敷かれた貝殻の中に頭を突っ込み、動かなくなっていた。
「これで予備は無しか!」

正十郎が吐き捨てるように言った。


北片の押送舟・弁六丸が品川沖にやってきた。
「大川に入る前に、もう一度、海水を入れ替えよう」

源助の言葉を受け、太一が漕手座下にある生簀の蓋を開けると、真鯛が腹を上にして浮いている。
「あっ、一枚上がってる!」

大事に運んできたつもりでも、一匹、失ってしまったのだ。
「ほかは、でえじょうぶか」

源助に言われ、水手たちはそれぞれの生簀を覗いている。
「どうだ?」
「こっちは、ぴんぴんしてやす!」

一斉に答えが返ってきた。
「そうか、よし、海水を入れ替えて、急いで、栓をしよう」

生簀の海水を三分の一ほど掻い出し、新しい海水を入れ終えると、皆で舷側にある幾つかの小さな穴に、身を乗り出して栓をする。川や堀割の淡水が、舟の生簀に入らないようにするためだ。その作業を終えると、弁六丸は大川に入り、帆を降ろして、日本橋川をゆっくりと櫓走で上っていく。

和田屋正十郎はいらいらしながら、江戸橋に立って待ち構えていた。
「北片の押送舟だな」

橋の上から叫んだ。
「へい、宮地屋の弁六丸、ただいま、着きやした」

源助が答えた。
「約束の刻限ぎりぎりだぞ」
「申し訳ごぜえません」

源助はそう言って頭を下げた。

紫色に染まった空は、まだ暮れなずんでいる。

正十郎は江戸橋から急いで木更津河岸に降りてきた。
「活鯛は、皆、無事か?」
「残念ながら、一匹だけ」
「二十九枚は無事なんだな」
「へえ」
「それはでかした!」

正十郎の顔から初めて笑みがこぼれる。五十四枚は確保することができたのだ。今夜は久しぶりに、枕を高くして眠ることができそうだ。そう思ったら胃痛と気鬱が、すっと消えていく。
「すぐに、肴役所の生簀に運んでくれ」

和田屋正十郎は、源助たちに指示を与えると再び肴役所に向かった。

源助が樽に活鯛を移していると、平吉がやってきた。
「源助、やっぱり、おれたちの勝ちだろう?」
「そうかな」
「おめえも、負けず嫌いだな、遅れてきたくせに」
「おれたちが、どうして遅れたか、分かってんだろう?」
「いや、しらねえよ」
「嘘つけ、おめえが断ったせいだぞ」
「じゃあ、産婆を呼びに行ったのか」
「あたりめえだろう」
「そうか、行ったのかそれで、産婆は間に合ったか?」
「ああ、間に合ったよ」

産気づいた女は正次の妹だったと、源助が話すと平吉の態度が一変する。
「正次の妹なら、おめえたち、北片が産婆を迎えに行くのは、当たりめえだな」

平吉がへらへらと笑い出した。
「おめえって、奴は―」

源助は憤りをおぼえる。
「それで、無事に生まれたんだろう?」
「ああ、女子おなごだ」
「そいつは、いい、雛祭の活鯛を運んでいるときに、女子誕生とは縁起がいいじゃねえか」

そう言って笑い飛ばした。


肴役所から戻った和田屋正十郎が、木更津河岸にいる源助と平吉を呼んだ。
「活鯛は予備を含めて五十四枚、納めることができた」

源助と平吉が頷くと、和田屋が切り出した。
「早く届けた方に、活鯛の代金に二割加えたものを払うという約束だが―」

和田屋が息を継ぐと、平吉が次の言葉を待っている。
「二割の上乗せは、活鯛を多く届けた方とする」
「えっ、早く届けた方じゃ、ねえんで?」

平吉が顔色を変える。
「そうだ、北片の方が多く運んできたので、北片の勝ちだ」
「和田屋の旦那、それは、ちと」
「いや、北片は少し遅れたが、二十九枚という数が物を言った。北片が二十九枚、届けてくれなかったら、大変なことになっていたからな」
「おれたちは、早く着いたのに、上乗せ無しですかい」
「そういうことになるな、そもそもは三十枚すべて生きていて、早く届けた方が勝ちなのだ。いくら早く着いても、二十五枚ではな、鯛は活きていてこそ、活鯛なんだ」

平吉が不満そうな顔をする。
「いいんでやんすか」

源助がぼそぼそっと言った。
「これでいいんだ」

和田屋正十郎は、源助たちが活鯛を大切に扱い、被害を一枚にとどめた努力を買ったのだ。

和田屋が帰ってしまっても、平吉はまだ納得が行かないようだ。
「縁起がいいのは、おめえたちだったな。そのツキを譲ったのは、おれたちだぞ!」
「なんてことを言うんだ」
「おめえたちは運がいいよ」

平吉は屁理屈をこね、減らず口を叩く。
「運がいいんじゃねえ。赤子も活鯛も、大事に思ったからよ」

源助はぼそっと呟いた。

夕闇が迫り、日本橋川には湿った潮の香が漂っている。


三月初の巳の日。江戸城の大奥では姫様たちの雛祭が催された。木更津浦から運ばれた活鯛は、鯛の塩焼きとなって供された。だが、幼い盛姫様は箸を付ける真似ごとをしただけで、すぐお下りにしてしまった。そしていつものように、大好物である薄桃色に染まった鯛のそぼろを所望されたのだった。

(了)