日本歴史改方

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コハダ、このしろ、稲荷ずし天保棄捐令異聞

一、鮨売り小平次

すしや〜、コハダのす〜ゥ!」

小平次の振り売りの声が、秋の深まった浜町堀沿いを下っていく。

す〜ゥし!と言わずに、す〜ゥ!と洒落のめすのが、コハダ鮨売りの小粋な言い廻しだった。

豆絞りの手拭いを吉原かぶりにした小平次は、紺屋町から小伝馬町を廻って堀沿いの道を富沢町に向かっていた。鮨を入れた箱は九重に積み重ね、肩にかついでいる。

コハダ鮨は、いまが食べどき売りどきだ。

脂がのってきたコハダを三枚におろし、酢で締め、貴重なわさびをチョイと付けて握る。このコハダ鮨を口にした江戸っ子は、
「こいつァ、おつだ!」と誉転ほめころばす。

小平次は昼の鐘までには売り切ろうと、勇み立つ気持をおさえ、汐見橋まで来たときに橋の向こうから、
「小平次さ〜ん!」

お仙に呼び止められた。

小平次は手を上げて応えながら橋を渡っていく。

髪に珊瑚の赤いかんざしを挿したお仙は、色白の顔に笑みを浮かべながら近づいてきた。小平次がそろそろやって来る頃だと、見当をつけて待っていたのだ。

お仙は橘町の扇子問屋、百仙堂のひとり娘だった。

評判の器量よしだが、甘やかされて育ったせいか、十六歳にしては鼻っ柱が強く、物怖じしない。そんな性格だったから、男たちも容易には言い寄れなかった。

お仙の乳母おふじが、小平次と同じ本所横網町の長屋に住んでいたこともあって、二人は子どもの頃からよく遊んだ仲だった。

小平次は、いつものように肩から鮨箱を下ろすと、お仙の注文を待った。コハダ鮨を贔屓にしてくれる客でもあったからだ。
「ごめんなさい!」

お仙は鮨を待っていたのではなかった。
「構わねえよ」

小平次はそう言って、下ろした鮨箱をまた肩に背負う。
「きょうは、萬八楼で大喰大会があるんでしょう?」

お仙が言った。
「ああ、おいらも手伝いに行くんだ」

小平次は、親方から大喰大会で使う鮨を運び込む仕事を頼まれていた。
「わたしも行きたいんだけど」
「行きたいって、見物にかい?」
「ええ」
「野郎ばっかりだぜ」
「だから、一緒に連れてってほしいの」

男ばかりのところに一人で行くのは、さすがに、お仙もためらいがあった。
「いいよ、だけど、あれは見物するもんじゃなく、参加するもんだぜ」
「実は、新庄藩の知ってるお侍さんが参加するの」
「それで、お侍の応援に?」
「ほら、前に本所で変な人に絡まれたとき、助けてくれた、あの田村正三郎様よ」
「ああ、そのときのお侍か」

小平次は会ったことはないが、お仙が仕事にあぶれた無宿人らしい男につけ狙われたとき、侍に助けられたという話は聞いていた。

ちょうど半年ぐらい前のことだった。

おふじのところで長居してしまい、お仙は夕暮れどきの本所の路地を両国橋に向かっていた。後をつけてきた男に絡まれ、逃げようとしたが追いかけられ、お仙は危ういところを通りかかった田村正三郎に助けられた。

正三郎は、出羽新庄藩の江戸詰めの侍だった。

飯倉狸穴の藩邸から本所の津軽藩邸に、剣道の手合わせに月に一度訪れていた。その帰り道で出くわし、お仙を助け、橘町の百仙堂まで送ってくれたのだ。

正三郎は鼻筋の通った役者のような顔立ちだった。

お仙の両親は娘の命の恩人と感謝し、夕餉を食べていくように勧めた。母親は家族のために用意していた、かさごの煮付けや茄子のしぎ焼きなどを出してもてなし、これからも稽古の帰りには気軽に立ち寄ってくださいと言葉をかけた。

そのときは、図々しく立ち寄れぬと思った正三郎も、本所から飯倉への途中にある百仙堂は、ひと息入れるには格好の場所だった。

それ以来、稽古の帰りを待ち構えているお仙にすすめられ、正三郎は百仙堂に寄っては休んでいくようになった。

お仙も正三郎が来るのを毎月心待ちにしていた。


「大喰大会に、その侍も出るというわけか」

その後も、お仙が侍と関わり合いを持っていたことに小平次は驚く。
「正三郎様は、絶対に来てくれるなって言うのよ」
「見物にくるなってことかい」
「ええ、でも、わたし、行きたいの」

侍にのぼせているのか、お仙の顔は上気している。
「いやだ、小平次さん、変な目でじろじろ見ないで!」
「おいらはべつに」

小平次は慌てて目をそらす。
「でも、一緒に行くという訳には」
「あら、どうして?」
「おいらは、これを売り終えたら、萬八楼まで鮨を運ばなきゃなんねえんだ。八ッ時(午後二時)に柳橋のところで落ち合おう」
「両国橋寄りの柳橋のたもとね」
「ああ」

小平次は鮨を運び込んでしまえば、あとは仕事はなかった。その後なら、お仙に付きそってやることができると思った。
「やっぱり、頂こうかしら」

お仙は帯の間から巾着を出すと、鮨を注文する。
「へっ、有難うござりやす」

小平次は鮨売りの顔に戻って、慌てて肩から鮨箱を下ろした。
「コハダ鮨を六個に、それと他には何があるのかしら」

お仙が鮨箱をのぞく。
「申し訳ねえ。あとは、海苔巻が十個しか残ってねくて」

穴子やおぼろ、切りするめなどは売り切れ、残っているのはコハダと、かんぴょう巻きだけだった。
「じゃあ、その海苔巻を全部、いただくわ」

小平次は手際よく、竹の皮にコハダ鮨と海苔巻を包んで渡すと、お仙が金を寄こした。
「毎度、有難うござりやす!」

小平次は、あたりに聞こえるような大声を張り上げた。
「じゃあ、またあとで、柳橋でね」

お仙は、汐見橋のたもとの百仙堂へと戻っていった。