日本歴史改方

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コハダ、このしろ、稲荷ずし天保棄捐令異聞

十、小平次 の苦悩

客が帰った後で、与兵衛ずしは店を閉めたばかりだった。

誰もいない店の中で与兵衛がひとり、帳場で書き物をしている。

清吉と小平次が入っていくと、与兵衛は驚いたような顔をした。
「なんだい、ふたり揃って」
「旦那に、ちょっと聞きてえことが」

清吉が口火を切った。

与兵衛から座敷に上がるようにと勧められたが、小平次はもう遅いからと断り、上がりかまちに腰をおろした。
「親方は一昨日おととい、飯倉に行きましたよね」
「小平次、どうしてそれを」

与兵衛が表情をこわばらせた。
「おいらが、大喰大会でコハダ鮨を喰っていた侍のことを聞いたとき、旦那はとぼけてましたね」
「ちょっと待って、お前たち、なんなんだ、いきなりそんなことを」
「行き方知れずとなった、新庄藩の侍のことが知りてえんです」
「やっぱり、お前だったか」

与兵衛が小平次をにらみつけた。
「いえ、それは」

小平次はしどろもどになる。

与兵衛は、新庄藩の江戸御留守居ご家老、長野盛重に呼ばれ、大喰大会のことを知っている者の仕業に違いないといわれた。即刻、コハダを仕入れた者を探すようにと申し渡されていた。

与兵衛は河岸に向かうと、傷んで使い物にならないコハダを買っていった者はいないかと探しまわった。すると、肥料用の雑魚を買い集めている男の話から、コハダを買っていった男の人相が小平次によく似ていたのだ。
「シラを切っても駄目だぞ!」

与兵衛の剣幕に、小平次は黙っていることができなくなり、百仙堂の娘お仙が新庄藩の侍、田村正三郎に思いを寄せていたことを話し、お仙から頼まれて行き掛かり上、断ることができなかったのだといった。
「旦那、元はと言えば、その侍が突然、消えちまったことですよ」

清吉が助け船を出した。
「消えたんじゃない」

与兵衛が強い口調でいった。
「でも、いなくなってしまったことは確かですよ」

小平次も食い下がる。
「あれは、災難なんだ」
「災難?」

清吉が驚いて聞き返した。
「そうだ、災難だったのだ」

大喰大会に立会人として迎えた中野播磨守に、新庄藩の長野盛重を引き合わせる段取りが、参加した新庄藩の侍が死んでしまうという番狂わせが起こったのだ。
「それなら、どうして死んだと言わないんです。当藩にそのような侍はいないなどと、嘘をつくんですかい」

小平次は納得がいかない。
「新庄藩にお家の事情もあってな」

出羽地方は凶作が続き、人々が飢えに苦しんでいるときに、大喰大会に出た自藩の侍が鮨を喉に詰まらせ死んだとあっては、国元への言い訳が立たない。このことは内密にしてほしいと、与兵衛は長野盛重から頼まれたのだ。
「それで、見殺しにしたんですかい」
「殺したとは人聞きが悪い、災難だと言っただろう」

与兵衛はそう言うと、あの日の出来ごとを話しはじめた。

新庄藩の田村正三郎が、急に気分が悪くなって倒れ込んだ。それに気づいた見張り役が、すぐに隣の部屋に運び込むが、コハダ鮨を喉に詰まらせ、息もできない状態だった。慌てて背中を叩いたり、顔を下に向けたりするが、吐き出すことができず、顔は見る間に紫色になり、田村正三郎は死んでしまったのだと説明した。

それまで黙って聞いていた清吉が、ぽつりと呟いた。
「コハダ鮨を喉に詰まらせて死んだのか!」
「侍の亡骸なきがらは新庄藩に運ばれたんですね」

小平次が念を押した。
「多分、そうだと思うが」与兵衛は曖昧に答える。
「多分ですか?」
「小平次、わしは何も知らんのだ」
「知らないって、どうしてですか」
「わしは、亡骸とは関係ない!」

与兵衛は突き放すようにいった。
「そうか、もしかすると」

清吉は何かを思い出したのか、
「大川に上がった、あの時の死体は」

懐の中から写し帖を取り出そうとした。
「清吉、やめろ!」

与兵衛は写し帖を広げようとする清吉を止めた。
「知らんほうがいい」

与兵衛はまだ何かを隠しているようだった。
「お前たちは、まだ若いから、分からんかもしれんが、人は苦い経験から多くを学び、知恵もついて、世の中というものは動いていくんだ」

与兵衛は話をそらすように、若いころの失敗談を語りはじめる。

浅草蔵前時代、与兵衛は奉公人の分際で銀煙管や書画を買い込み、早く一人前の商人になろうとした。ところが、奉公を終えたときは、商売をしようにも元手がない。買い揃えた品を並べて道具屋を始めるが、にわか目利きでは商い口も知れている。すぐに、一文なしになってしまった。
「商いは闇雲やみくもに突っ走っても駄目だ。目利きという裏付けがないと失敗するんだ」

江戸前の握り鮨なら与兵衛ずしと言われるようになったのも、米選びの目利きを学んだからだと、自分の体験を話すのだった。

清吉は大川に上がった死体のことが気になり、与兵衛の話も上の空で聞いていた。
「江戸前の握り鮨は、わしの分身のようなものだ。コハダ鮨を喰って死んだことが世間に知れれば、握り鮨人気にも水を差すことになる。このことは、ここだけのことにしておくんだ。お前たちが騒ぎ立てると、わしのこれまでの苦労も水の泡だ。そんなことは、わしは断じて許さん!いいな、世の中は杓子定規にはいかぬということをよく肝に銘じておくのだ」

与兵衛はそう言うと、用意して置いたままごと屋の手間賃を清吉に手渡し、棚の上から見立番付を取ってきた。
「ほれ、見てみるといい」

『江戸じまん名代名物案内』の真ん中には『為御免』の文字が厳めしくあり、行司役には『向島の松の隠居』と、世話人の華屋与兵衛の名が並ぶ。
「与兵衛ずしはここだ」

番付の大関の欄に与兵衛ずしの名が、しっかりと刻み込まれている。
「清吉の名前も、ここにあるぞ」

与兵衛が指で差したのは、番外の『からくり人形』だった。

確かに、人形師清吉とあるが、芥子けし粒ほどの小さな文字だ。人形師と書かれていても、これで仕事の注文が増えるとは思えない。それよりも、清吉は自分が描き留めた死に顔のことが気になっていた。