十一、近づく飢饉
上空には暗雲が垂れ込め、行き交う小舟も少なく、大川は朝からひっそりとしていた。降るならひと思いに降ってほしいと、与兵衛は浮かぬ顔で空を見上げる。
新庄藩から使いの者が見えたときは、雨もポツポツと降りはじめた。
藩邸に来てほしいという長野盛重からの伝言だったが、与兵衛は直ぐには腰を上げなかった。朝からの気の重さが動作を緩慢にしている。
清吉と小平次には事の顛末を話したが、二人が納得していないことは分かっている。真相を軽々しく口にすることはできないのだ。与兵衛は重い腰を上げると、辻駕籠を呼び寄せ、新庄藩へと向かった。
飯倉狸穴に着いたとき、雨は本降りになっていた。
すぐに座敷に通され、長野盛重が待ち構えている。
「棺桶のコハダの件ですが」
与兵衛は事の顛末を話し、正三郎に惚れていた百仙堂の娘お仙の仕業であったことも付け加えた。
「あいつには、好いていた娘がいたのか」
「娘の片想いのようで」
与兵衛が遠慮がちに言うと、盛重の表情が少し和らいだ。
「江戸藩邸切っての男前だったからな」
正三郎の端正な顔立ちを思い浮かべるように目を細めた。正三郎は従兄の息子で、盛重とは縁戚関係にあった。
「娘に対しては、いかように?」
「そのことは、もうよい」
盛重は咎め立てをするつもりはなかった。
正三郎が江戸の町娘に好かれていたことが唯一の救いだと思っている。正三郎の短い江戸での暮らしに、彩りを添えてくれたその娘に、盛重は感謝したい気持でもあった。
「ところで、亡骸の方は?」
与兵衛は、清吉から大川に死体が上がったと聞き、田村正三郎ではないかと思い、すぐに盛重に知らせていた。
「懇ろに葬ってやった」
やはり、死体は正三郎だった。
怨恨による殺人ではないかという同心に、盛重は話をつけて、正三郎の遺体をひそかに受け取ると、新庄藩の江戸での菩提寺である三田の常林寺に仮埋葬した。
「それは、ようございました」
与兵衛が安堵の表情を浮かべた。
「あいつには、本当に気の毒なことをしてしまった」
盛重は、従兄である正三郎の父親に災難であったことを知らせ、自分がついていながらこのような結果になってしまったことを深く詫びる文を送っていた。
あれは確かに災難だったのだ。
盛重は何度も自分にそう言い聞かせてきた。
「それにしも、コハダ鮨を喰って死ぬとはなんと因果な」
コハダは出世魚で、成長すると、このしろになる。このしろは「この城」を連想し、盛重はコハダも、このしろも食べなかった。
正三郎は伊勢屋との折衝がうまくいかず、町奉行所に委ねられ、中野播磨守のような権力者の力にすがるしかないと思ったのであろう。大喰大会で優勝すれば、中野播磨に近づくことができると考えたのかもしれない。その結果、コハダ鮨を喉に詰まらせて死んでしまったのだ。
それにしても、中野播磨守の行動は素早かった。
盛重が正三郎の屍を藩邸に持ち帰ろうとすると、播磨守はそれを制止し、自分に災いが及ぶのを恐れ、身元がわからぬように処分するようにと迫った。盛重が躊躇すると、播磨守は自分の配下の者を呼び寄せ、正三郎の死体を運び出させ、始末するようにと命じた。
盛重の沈黙を破って、与兵衛がいった。
「その後、播磨守さまからは?」
「うむ」
盛重は言葉を濁す。
庭石を叩く雨音が一段と激しくなった。
「実は、急ぎ来てもらったのは、近々、国元に帰ることになったのだ」
「えっ、ご家老様は、お戻りになられるのですか」
「そうだ、いろいろと世話になった」
盛重は頭を下げた。
「いや、大したことも出来ず」
「与兵衛殿は、十分、助けてくれた」
盛重は淋しそうな笑みを返す。
「それで、伊勢屋の訴えは?」
「それはもう心配なくなった」
「御奉行様は、お取り上げにならなかったのですね」
「うむ」
「それはようございました」
心配ないと言うわりには浮かぬ顔をしている。
「遅くなってしまったが、これを」
盛重は懐から袱紗に包んだものを出し、
「わしが借りていたものだ」
与兵衛の前に置いた。
「いえ、それは」
与兵衛が慌てて押し返す。
「これは受け取れぬ、借用したものだ」
「それでは、お餞別として、お受け取りください。長い間、ご贔屓にしてくださった、お礼でございます。どうか、お気になさらず、お納めください」
与兵衛はそう言うと頭を下げる。
盛重はしばらくためらっていたが、
「かたじけない」
丁重に礼を述べると、袱紗を懐に収めた。
間もなくして、長野盛重は出羽へ帰っていった。
その三か月後、新庄藩から盛重の文が与兵衛のもとに届く。麻布狸穴の伊勢屋忠兵衛が中野播磨守によって、お取りつぶしにされたことが記されていた。
伊勢屋が町会所から融通を受けた金が返せなくなったと知るや、播磨守は武家に金品を不当に貸し与え、利をむさぼっていたことを盾に取り、伊勢屋の貸付金を全額反古にしてしまう。そして、家屋敷などの財もすべて没収し、伊勢屋忠兵衛を江戸から所払いにしてしまった。
盛重は、伊勢屋の訴えをすぐには取り上げないでほしいと頼んだだけなのだと、経緯を知る与兵衛に書き綴り、それに荷担してしまった己れを責め、田村正三郎という優秀な藩士までを失ったことを憂いて自らに裁きをつけていた。
その文は、長野盛重の遺書だったのだ。
コハダが成長して、このしろになると、コハダ鮨はお休みとなる。このしろは骨が硬く、すしネタにするには大きすぎるからだ。
春の旬物が出るまでのつなぎに、コハダ鮨売りはフナの昆布巻きを売り歩く。
汐見橋を吹き抜ける風が冷たい。
小平次がフナの昆布巻きを売り終えて戻ってくると、お仙が待っていた。
「わたしが、正三郎様に、あんなことを言わなければ、コハダ鮨を食べなければ」
「お仙ちゃんのせいじゃねえよ」
「いいえ、わたしのせいだわ」
「そんなに自分を責めちゃいけねえよ」
「わたしって、ほんとに、棺桶にコハダなんて、縁起でもないことをしてしまって…」
お仙は正三郎が死んだことを小平次から聞かされ、寝込んでしまったほどだった。
コハダを入れた棺桶を藩邸に置いたことを、いまは二人とも後悔していた。
「寒くねえかい?」
「ちょっと、寒いけど」
「西広小路まで行って見ねえか」
「ええ、いいわ」
二人は、汐見橋から橘町を抜けて西広小路へと向かう。
西の空を彩っていた茜色が、海に向かって徐々に広がっていく。
「よう、お二人さん!」
振り返ると、清吉が立っていた。東両国から橋を渡って来たところだった。
清吉がニヤニヤしている。
お仙は慌てて、小平次のそばを離れる。
「いいってことよ」
お仙と小平次が似合いの夫婦になると、清吉は思っていた。
「あたし、帰る!」
お仙は急によそよそしくなった。
「送って行くよ」
小平次が後を追おとすると、
「大丈夫よ、近いんだから」
お仙は後も振り返えらずに帰っていった。
「相変わらずだな」
清吉が苦笑いを浮かべる。
「あれが、いつものお仙ちゃんさ」
小平次は一向に気にしていない。
「ところで、清吉つぁん、これから仕事かい?」
「そうだ、こうしちゃあいられねえ、正蔵師匠の寄席が始まる前に、からくりの具合を確かめねえといけねえんだ」
清吉はそう言って、西広小路の寄席小屋を見上げた。
「そいつは、ご苦労なことで」
「まあ、我が子の出来映えを見るようなもんさ」
人懐っこい笑いを残して、清吉が去っていった。
小平次は、清吉の後ろ姿を見送りながら呟いた。
「いいとろだったのに」
実は、お仙に胸の内を打ち明けようと思っていたのだ。
清吉に邪魔され、小平次は家へ帰ろうと両国橋へ向かった。
橋を渡り終えたところで、小平次は葦の茂みに動くものを見た。よく目をこらすと人影だ。身投げでもするのかと、葦をかき分けて近づいた。
突然、バサッという水音がした。
「やめろ!」
小平次が叫ぶと、葦の中から男が飛び出してきた。
「あっ、小平次さん!」
男は与兵衛ずしの若い衆だった。川に何かを投げたようだった。
「何を捨てたんだ!」
「飯粒を」
若い衆が小さな声でささやいた。
「どうして、飯粒を」
「親方の指図で」
「指図?」
「へえ、親方は宵越しの酢飯を使って、握ってはいけねえと」
「それで、捨ててるのかい」
「川に捨てれば、飯を喰った魚が大きくなって、戻ってくるさ」
若い衆は気にもかけていない。
与兵衛ずしが余った酢飯を川に捨てているらしいことは、小平次も小耳に挟んでいる。
日頃から与兵衛は、鮨の善し悪しは米で決まるといっていた。酢飯にうるさいことも知っていた。だが、そのようなことはしないだろうと思っていただけに、噂が本当と知ると、小平次はやるせない気持ちだった。
この年は天候不順が続き、新庄藩では国元で消費する米が不足し、廻米の一部を江戸表で買い戻さねばならなかった。
藩主正胤は更なる冗費を節約しようと、江戸詰の藩士の数を削減し、藩を上げて質素倹約に取り組み、日々の努力を怠らぬようにと申し渡した。
やがて、天下の口を干すといわれた、天保四年(一八三三)の凶作が襲う。
米の値段は全国的に高騰し、飢餓は国中に広がった。
疲弊した世を正すには改革しかなかった。
幕府の実力者となった水野越前守忠邦による改革が行われた。
江戸前の握り鮨も槍玉に挙げられる。高価な鮨を売ったとして二百余人が捕まり、華屋与兵衛も手鎖の刑に処された。
その機に乗じて、尾張から油揚げを使った安価な稲荷ずしが江戸へ入ってきた。
お上の目を恐れてか、稲荷ずしは昼には売れなかった。
夜になると、人々はこっそり買い求めにやってくる。
小平次も稲荷ずしに切り替えていた。
「おいなりさ〜ん!いなり〜ずし〜」
小平次の美声が、暗くなった浜町堀沿いを下っていく。
天保十四年(一八四三)、幕府は財政難に陥った諸藩を救済するために、債権者に対し債権放棄と債務繰延べをさせる棄捐令を発布した。
(了)