日本歴史改方

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コハダ、このしろ、稲荷ずし天保棄捐令異聞

三、江戸じまん大喰大会

天保二年(一八三一)十月吉日、昼八つ半(三時)

両国柳橋の料理屋、萬八楼の貸座敷では、いましも『江戸じまん大喰大会』が始まろうとしていた。

江戸の名代名物といわれる食い物屋から選ばれた大食漢が、すでに四、五十人ほど集まっている。推薦してもらったのは、腹をすかしたよからぬ連中が押し寄せては困るからだ。

ひと目で相撲取りと分かる大男もいれば、仕事先から駆けつけたらしい職人風の男もいた。腰の曲がった老人に交じって、大人びた顔をした子供の顔もあった。

それにしても、集まった連中は一応に元気がない。腹を思い切りすかして来たのだろうか。皆、その場にへたり込むようにうずくまっている。

小平次は庭を見回して松の木陰になっているところを見つけて、お仙を連れていく。

ここなら、男たちからはお仙の姿は見えないので、好奇の目で見られることはないだろうと思ったのだ。

庭に面した座敷は大勢の人が入れるようにと、すでに仕切りの襖が取り払われていた。

目当ての料理はまだ運び込まれてはいないが、酢飯や天麩羅を揚げる匂いに交じって、蕎麦つゆの匂いなども漂ってくる。

萬八楼の主人萬屋八郎兵衛が現れ、
「さあ、皆さん、上がってください」

庭にいる男たちに声を掛けた。

それを合図に、皆、我先にと座敷へと向かう。

その勢いに、お仙は思わず後ずさりし、小平次の後ろに身を隠す。

男たちはあっという間に全員、座敷に上がった。お仙は庭の中が静かになると、
「どこにいるのかしら?」

身を乗り出して侍の姿を探している。
「清吉っぁんも来てるはずなんだが」小平次も目を走らせた。
「まあ、清吉さんも?」
「鮨の部に出るそうだ」
「えっ、清吉さんも鮨の部に?」

お仙の乳母おふじが清吉の飯の煮炊きをしていたので、お仙も清吉とは顔なじみだった。
「ということは、そのお侍も鮨の部に?」
「ええ、正三郎様も鮨の部に出るといってたわ」
「それは、また偶然だな」

正三郎と清吉の姿が見つけられぬまま、大喰大会は始まる。

世話役を務めている与兵衛ずしの華屋与兵衛が、一堂を前にこう切り出した。
「さて、皆々様方には、初めに、手順を申し述べておきましょう。まず、小手調べに、飯十椀と汁三杯に挑んでいただきます。その後、鮨、天麩羅、蕎麦の部から好きなものを選らび、競い合ってもらいます。そして、一番多く召し上がった方を勝者と致します」

与兵衛の言葉が終わるか終わらぬうちに、座敷の中は騒然とした。
「話が違うじゃねえか!」
「そうだ、汚えぞ!」
「鮨をすぐに喰わせてくれ!」
「天麩羅が喰えるから来たんだ!」

男たちは口々にわめき立てる。すぐにも、目当てのものが食べられると思ったのだ。与兵衛は不満を並べ立てる男たちに向かい、毅然として言った。
「本日の大喰大会は、小手調べを通った者のみが、次に挑むことができるのでございます。どうか、ご承知おき下さい」

まだ、ブツブツと文句を言う者もいたが、これが決まりだとわかると静まった。だが、与兵衛が奥の座敷に消えると、座敷の中はまた騒々しくなった。
「あっ、清吉さん!」

お仙が清吉を見つけた。

座敷の中は人で溢れ、清吉は腹が減っているのか、柱にもたれ掛かるように座っている。
「小平次さん、正三郎様がいたわ!」

お仙が指さした新庄藩の藩士田村正三郎は、侍にしては細身の男だった。清吉とは、柱を挟んで背中合わせに座っている。お仙は自分に気づいてもらおうと、松の樹から半身を乗り出し、手を振って合図を送るが、正三郎はお仙には気づかない。 ざわついていた会場が急に静まった。

そのとき、萬八楼の主人八郎兵衛が、肥えた大入道のような男を丁重に案内するようにして入ってきた。茶色の縮緬の道服どうふくを着た男は眼光鋭く、その場を威圧するようなものがある。
「向島の隠居だ!」

親方が大事な客人と言ったのは、向島の隠居だったのだ。
「中野播磨守さまだ」

小平次はそっとお仙に耳打ちした。

十一代将軍家斉の側室お美代の方の養父だった。

向島に隠居し落髪したため、向島の隠居と呼ばれている。

隠居したいまも、城中の宿直とのいを勤め、登城の際は向島から屋形船で大川を下り、浜御殿脇を通って汐留橋をくぐり、日比谷御門へと漕ぎつけていた。

播磨守が緋毛氈の上に腰を据えると、与兵衛が後ろに控えていた老人を引き合わせる。脂っ気のない貧相な顔立ちの年寄りは、どこかの藩の家老のようだった。

播磨守は軽く頷くだけで、家老風のその老人とは目を合わそうともしない。老人がしきりに話しかけるが、播磨守は無視している。柱にもたれていた田村正三郎は、その老人が播磨守に軽くあしらわれているのを柱の陰 からじっと見つめていた。
「始まるわ!」

お仙の言葉に、小平次はふと我に返った。
「それでは、この手拭いを振り下ろしたら、開始の合図と致します」

与兵衛がしかつめらしい顔つきで、手拭いを振り下ろすと、男たちは一斉に立ち上がり、飯椀の並ぶ台に向かって突進した。

この大喰大会の世話役を華屋与兵衛が務めるのには理由わけがあった。

『江戸じまん名代名物案内』の見立番付をつくり、自分の店を上位に位置づけようと、その行司役に食通で知られる播磨守を担ぎ出そうとしていたのだ。

この大喰大会は播磨守の肝いりで開かれ、見立番付を盛り上げるための前哨戦のようなものであった。
「正三郎様、大丈夫かしら?」
お仙は、正三郎のことしか頭にない。
「食べ始めたわ!」

正三郎の動きを逐一、小平次に話している。

庭にはこの日の準備をしてきた関係者たちに交じって、参加者の縁者たちも集まってきた。皆、大会の行方を固唾をのんで見守っていた。


座敷ではすでに戦いが始まっていた。

飯椀をつかむと、箸でかっ込むように飯粒を口の中に押し込んでいる者、空になった飯椀を早くも積み重ねていく者もいた。

清吉は飯粒を口に含むと、ゆっくりと噛んでいる。腹が空きすぎたせいか、すぐには食欲が出ないようだ。

先程まで文句をつけていた連中も黙々と喰っている。

飯粒が線香花火のように、あたりに飛び散っている。

必死の形相で喰っている者もいれば、飯粒が飲み込めず胸を叩く者もいた。

清吉は、おふじが朝餉につけてくれる梅干の酸っぱさを思い浮かべると、舌の奥から唾液が滲み出てきた。このときとばかりに、飯をかっ込む。だが、それもいっときだった。また飯が喉を通らなくなる。今度は飯椀に汁をかけ、ぶっかけにして、ひと思いに流し込むが、胃袋が突き返すように、それを押し返してくる。最後の十椀目を喰い終えたときは、居ても立っても居られぬほどの満腹状態だった。
「正三郎様、もうひと息だわ」

お仙の応援が通じたのか、正三郎は飯椀を七、八個ほど重ね、まだ余裕がある。細身にしては食欲があると、小平次が感心していると、突然、若い男が座敷から飛び出してきた。

小平次とお仙の横を駆け抜け、庭の植え込みに向かって走り込むと、男は食べたばかりの飯を吐き出した。
「あら、いやだ!」

お仙が声を上げると、
「見るんじゃねえ!」

小平次は、お仙に吐瀉物が見えないように自分の体で隠した。

お仙はふうっと息を吐くと、正三郎が気がかりなのか、再び座敷の正三郎を見つめている。

小手調べの途中で諦めた者は、自分の喰い残した飯を持ち帰ろうと、持ってきた竹の皮に包んでいる。そうかと思うと、飯椀の数をごまかし、見張役に連れ戻されてくる者もいた。すでに半数以上の者が脱落した。
「正三郎様、食べ終えたわよ」
「清吉つぁんもだ」

いよいよ、次が本番だった。

清吉は庭に向かって、息を大きく吸ったり吐いたりしている。

その横で正三郎も首を回したり、腕を振ったりしていた。

清吉が二人に気づき、首に豆絞りの手拭いを掛けた小平次の隣に、お仙がいるのを見て、いつもの人懐っこい顔で笑っている。

正三郎は、お仙の赤いかんざしに気づいたようだ。お仙が手を振ると、正三郎は戸惑ったような表情を浮かべ、なぜか避けるようにして座敷の奥へと入ってしまう。

お仙は正三郎が自分に応えてくれないのが不満なのか、まだ手を上げたままだ。ところが、お仙が自分に手を振ってくれたと清吉は勘違いし、盛んに手を振り返している。


いよいよ、鮨、天麩羅、蕎麦に分かれて競うことになった。

清吉が鮨の列に並ぶと、後ろに先程の若侍が付く。鼻筋の通ったかなりの色男だと清吉は思った。

小平次たちの運び込んだ鮨箱の蓋が、取り払われる。海老そぼろ、海苔巻、鶏卵焼、穴子、赤貝などの握り鮨に交じって、コハダ鮨も用意されていた。

給仕の者が木の小皿に、同じネタの鮨を二個ずつ盛っていく。

その小皿を誰が一番高く積み上げるか、それを競うのだ。

清吉は好きなコハダ鮨を見ても手が出なかった。それでも何に手をつけようかと悩んでいると、鼻筋の通った若侍は、迷いもせずにコハダ鮨の小皿を取り上げた。そして、何かに立ち向かうかのように、猛烈な勢いで喰いはじめる。他の鮨には目もくれず、コハダ鮨の小皿ばかりを選んでいる。その喰いっぷりは並ではなかった。まるで何かに取り憑かれたように、脇目もふらず一心不乱に喰い続けている。
「お仙ちゃん、あれは?」

小平次もその異常さに気づいていた。お仙は心配そうに正三郎を見ている。
「コハダ鮨はいまが旬で、江戸っ子が好きな粋な鮨なのよって、話したせいかしら」
「オイオイ、よさねえか」

小平次は、正三郎に向かって声をかけている。

光り物のコハダ鮨は、チョイとつまむから美味いんであって、腹一杯、喰うような鮨でないことは、江戸っ子なら誰だって知っている。味の濃さと生臭さを敬遠する者がいるから殊更に通ぶって、粋な鮨だと言わしめているのだ。

小平次は首をひねった。

コハダがこのしろとも呼ばれることを、侍は知っているのだろうか。シンコ、コハダ、このしろと成長するにつれて呼び名が変わる。

握り鮨には、二、三寸(六〜九センチ)のコハダが美味だった。

五寸(十五センチ)ほどに成長したこのしろを使って握っても『このしろ鮨』とは呼ばないのだ。

徳川幕府のお膝元である江戸では、このしろは「この城」に通じるとして、すべてコハダ鮨といった。侍が「この城」を喰うことはもってのほか、当然、コハダ鮨も口にはしなかった。

それを知ってか知らずか、侍は自棄やけ喰いでもするかのように喰いまくり、その喰いっぷりの凄まじさは尋常ではない。

播磨守の隣に座る家老風の老人も、コハダ鮨を喰い続ける侍に驚き、身を乗り出すようにして見つめている。

清吉は、目の前の侍の喰いっぷりに気持が悪くなる。胸がムカムカし、遂にコハダ鮨には手を出すことができなかった。

こんな馬鹿喰いをするのは、どこのどいつだと、清吉は着物の紋所を見た。

細工物で紋所を彫ることもあり、家紋の知識は一応あった。侍の背には、大きな丸を中心に八個の小丸が囲むように付いた『九曜紋』が染め抜かれていた。

清吉は鶏卵焼と海苔巻を一皿ずつ、四個だけ食べ、早々に大喰大会から降りてしまった。
「あらっ?正三郎様が」

お仙が小平次の小袖を引いた。

たったいま、コハダ鮨を喰っていたはずの正三郎の姿が、忽然と消えていた。
「どうなっちまったんだ!」

小平次も狐にでもつままれたように呆然としていた。大喰大会が終わっても、正三郎は姿を見せなかった。その場に居合わせた人や清吉に聞いても、正三郎の行方はわからなかった。

鮨の組は照降町の煙草屋の若い衆が、飯十杯と汁三杯を食した後、鮨十六皿を平らげて優勝した。