四、顔のない水死体
清吉は懸命に手を伸ばそうとするが、手は空を切るだけで、捉えようとしているものになかなか手が届かない。その度に、ため息が口を突いて出る。その手を誰かに押さえつけられる。振り解こうとしても強い力に押され、清吉は言葉にならない叫びを上げた。
「清吉っあん、何を寝ぼけているの」
目を開けると、おふじに手を押さえられ、体を揺り動かされていた。
「夢だったのか」
清吉はぼんやりとした顔で、おふじを見た。
「いつまで寝てるの、お天道様は、とっくに昇ってるよ」
「そんな時刻か」
「大変なんだよ、さあ、早く起きて!」
おふじの大変は毎度のことだった。
「孫が生まれたって、ことだろう?」
清吉が先廻りをしていった。
富沢町の蝋燭職人のもとに嫁いでいるおふじの娘に、近々、孫が生まれることになっていたからだ。
「それは、まだ、ふた月も先の話さ」
おふじの言う大変は、西両国広小路の朝市に青菜を買いに行った帰り、両国橋の東たもとで男の水死体が上がって大騒ぎになっているということだった。
「土左衛門か、珍しくもねぇ!」
おふじに無理矢理起こされ、清吉は不機嫌な声でいった。
「それが、普通の土左衛門と違うのさ」
「どう違うんだい」
「顔がないんだよ」
「首から上がねえのか」
「あることはあるんだけど、めちゃくちゃで、ああ、くわばら、くわばら!」
おふじは思い出してもぞっとするのか、呪文を唱える。
清吉は水死体の顔が見分けもつかないと聞くや、ガバッと飛び起きて、写し帖と矢立を懐に入れた。
「御飯は食べないのかい?」
「いらねえよ」
昨日の大喰大会が後を引き、飯と聞いただけでまだ胸がムカムカする。
清吉は尻っぱしょりをすると飛び出していった。
大川端に着いたときには、顔見知りの同心が、手下の岡っ引きに野次馬を遠ざけるようにと指示していた。
死体には筵が掛けられている。
「相変わらず、鼻が利くな」
清吉を見ると、同心が嫌みをいった。
それには答えず、清吉は死体に近づいていく。
「仏さんの顔、ひでえそうですね」
「まあ、見てみろ!」
清吉が描いた絵から死体の身元が分かることもあるので、同心は咎め立てすることなく見せてくれた。
「こいつは、酷え!」
清吉が、たじろぐほどの顔だった。しかも全裸死体だ。
「水死ですか?」
「いや、どこかで殺されてから、川に投げ込まれたのだろう」
同心はそう答えると、死体に傷跡や入れ墨、灸のあとなどがないかなどを確めるようにと、岡っ引きに命じた。
身元の手がかりとなるようなものは見つからない。清吉は仏さんの足裏に剣術の足さばきで出来た胼胝があることを見逃さなかった。
「侍に違いない」
清吉は写し帖を開くと、早速、写しはじめる。
死体は数多く見てきたが、これほどひどい死に顔は初めてだ。
目の玉の一つは飛び出し、鼻は折れ曲がり、唇は半分ちぎれていた。
何かの恨みを買ったのだろうか。人相から身元がばれないようにしたのだろうか。
清吉はあまりの酷さにため息が出た。
肌の張り具合ではまだ若い男のようだ。幾つぐらいだろうか、どのような顔をしていたのだろうかと思いを巡らす。
「そうだ、コハダ鮨だ」
清吉はそのとき、夢の中で捉えようとしていたものが、コハダ鮨であったことに気づいた。つけ台に載ったコハダ鮨を食べようとするが、コハダ鮨はいつの間にか、ス~ッと消えてしまい、何度も試みるが食べることができなかったのだ。
大喰大会で与兵衛ずしのコハダ鮨が、喰えずじまいに終わったことが心残りで、そんな夢を見てしまったのかと、清吉は思わず苦笑した。