五、からくり人形師
長屋に戻ると、おふじが待ち構えていた。
「与兵衛ずしから使いが見えて、清吉っあんに、ちょっと来てほしいんだってさ」「なんだろう?」
「さあ?行ってみればわかるでしょうが」
「そりゃあそうだな」
おふじに言われるまでもなく、清吉はその足で本所元町の与兵衛ずしへと向かう。
入口の油障子を開けると、酢の匂いがプーンと鼻を突いた。
食欲を無くしていた清吉の胃に活が入り、朝からまだ何も食べていないことに気づく。
店の中には七、八人の客が座っていた。
与兵衛は握り終えた鮨を器に盛っているところだった。
清吉を見ると、客に鮨を運んでからやって来た。
「遅かったじゃねか、さあ、上がってくれ!」
与兵衛は、清吉を奥座敷に通した。
清吉は大川端に土左衛門が上がり、それを写しに行っていたのだと、遅くなった言い訳をすると、与兵衛は一瞬、顔をこわばらせたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「さっそくだが、新庄藩の江戸御留守居役ご家老、長野盛重様に会ってほしいのだ」
「新庄藩?」
「出羽にある藩だが、飯倉狸穴に上屋敷がある」
「それで、あっしに何用ですか」
「ご家老さまが、折り入って頼みたいことがあるそうだ」
「仕事のことですかい?」
「そうだ、腕の立つ細工師を世話してほしいと頼まれてな、清吉っあんの腕を見込んで、お前さんに言葉をかけたんだよ」
「そいつは、有難うござりやす」
そう言われると、清吉も悪い気はしなかった。
「ご家老さまには粗相のないよう頼むぞ!」
「へえ、それで何を作れと?」
「それはご家老さまから直接、伺ってくれ」
与兵衛は、本所津軽藩の江戸御留守居役家老を通して新庄藩の長野盛重と知り合い、いまは昵懇の間柄だった。
盛重はコハダ鮨だけは食べないが、鮨が好物だった。金を融通してくれた商人などへの手土産に、握り鮨の詰合せを買ってくれる上得意様でもあった。
ところが、盛重は藩とは関係なく、個人的に与兵衛からも金を借りていた。
諸藩の江戸御留守居役との寄合などで、藩に付けまわせない出費もあり、そうした金を与兵衛から工面してもらっていたのだ。
いまの与兵衛には金を用立てるほどの余裕があり、二人の関係は傍目にはわからない結びつきがあった。
何を作るのか、与兵衛は知っているようだ。だが話してはくれず、清吉が釈然としない顔をしていると、
「見立番付をつくるのだが、それに、清吉っあん、お前さんの名も入れようかと思っているんだ」
見立番付『江戸じまん名代名物案内』のなかに、からくり人形師として清吉の名前を加えると言うのだ。
「からくり人形師ですか」
清吉は、からくり人形師に自分の名前が載ると、また縁遠くなってしまうのではないかと心配だった。
与兵衛はそんなこととは露知らず、見立番付が出来上がるのを楽しみに待っているようにといった。
「ところで、大喰大会でコハダ鮨を喰っていた変なお侍さんは、どうなりやしたか」
コハダ鮨を十個ほど食べたところで気分が悪くなり、見張りの者たちに抱きかかえられて出て行った侍のことが、清吉は気になっていた。
「お侍だと?どの侍かな」
「コハダ鮨ばかりを喰っていたお侍ですよ」
「さて、どうなったかな」
与兵衛は、そらっとぼけるようにいった。
新庄藩の本城は出羽新庄盆地の中心にあり、本丸は堀と土塁で囲まれ、三方に隅櫓を有する平城だった。西方に鶴岡藩、北方に佐竹藩、南方に山形藩、東方に仙台藩と、大藩に挟まれた小藩で、九代目藩主の戸澤大和守正胤は六万八千石の大名だった。
江戸上屋敷は飯倉狸穴にあり、中屋敷が白金に、下屋敷は渋谷にある。
清吉はもう小半刻(三十分)も玄関先の小部屋で待たされている。
江戸御留守居ご家老、長野盛重は一向に現れない。
清吉は、先程、門前で町人風の男が藩邸の侍と交わしていた言葉が気になっていた。
町人風の男が「本当に明日は間違いないんでございますね」
と執拗に念を押すと、藩邸の侍は「間違いない」と卑屈なほどペコペコと頭を下げていた。どうやら借金を取り立てにきた商人に、侍は明日まで待ってほしいと懇願しているようだった。
大名屋敷はどこも火の車だと、清吉は親方の藤助から聞いていた。
新庄藩から仕事を頼まれそうだと話すと、親方は手間賃を踏み倒されないようにしろよと、心配してくれた。親方は侍相手の仕事が大嫌いだった。こっちの都合などお構いなしに呼びつけたり、一度で済む仕事でも何度も足を運ばせ、ちょっとしたことでも大仰に構え、不服そうな顔をすれば脅迫まがいのことを言う。侍相手の仕事は気骨が折れるから、手間賃はしっかり受け取って来いと、親方は何度も言っていた。
部屋の外で人の行き交う気配はあるが、足音が遠ざかるとまた静かになった。