七、行方不明の若侍
「お仙ちゃん、本当に行くのかい」
小平次は何度も確かめた。
「小平次さんはいつも、わたしのこと、助けてくれたじゃない」
「そいつは、餓鬼の頃のことだ」
小平次は子どもの頃から、お仙の不始末の尻ぬぐいをさせられてきた。
悪ふざけで破った障子の穴の犯人にさせられたり、悪戯書きの張本人にさせられたりと、お仙と遊ぶと決まって割を食う。それは大人になったいまも変わらない。
小平次は、お仙に拝み倒されて、飯倉狸穴の新庄藩上屋敷へ行くことになった。
田村正三郎を訪ねても簡単に取り次いでくれるだろうか。小平次の心配をよそに、
「清吉さんたら、あのとき、正三郎様の隣にいたのに、正三郎様がどうなったか全く分からないと言うんだから」
お仙は清吉に八つ当たりする。
「おいらも与兵衛ずしの親方に確かめたけど、分からないんだよ。とにかく行って、聞くだけは聞いてみよう」
小平次の言葉に安心したのか、お仙は急に早足になった。
「正三郎様、きっと戻ってるはずだわ」
飯倉狸穴の新庄藩藩邸に着くと、お仙は自分から近づいて行こうとする。
「門番には、おいらが話そう」
お仙を押し止め、小平次が門番にいった。
「田村正三郎殿にお目にかかりたく、お取り次ぎをお願い致します」
「田村正三郎?」
門番は、一瞬、顔をこわばらせた。
そして、二人の顔を見較べ、すぐに屋敷の奥へと走る。
「小平次さん、嘘ではないでしょう?正三郎様は間違いなく、新庄藩のお侍さんだったのよ」
「新庄藩の侍なら、こっちの名前を聞くんじゃねえか」
「あら、だって、すぐに屋敷に入っていったではないの」
「あの門番、妙な顔をして飛んで行ったぜ」
「急いで、呼びに行ってくれたのよ」
「それなら、いいんだが」
「小平次さん、疑り深いのね」
「そうじゃあねえよ」
正三郎が行き方知れずになって以来、お仙の口から出るのは正三郎のことばかりで、小平次はいい加減うんざりしていた。
屋敷の中から出てきた門番は、小平次とお仙の前に来ると居丈高にいった。「当藩には、そのような者はおらん!」
「いない?」
小平次が聞き返すと、
「そうだ」
門番は二人を追い返すように手を振る。
「そんな、嘘だわ!」
お仙は青ざめ、いまにも倒れそうだった。
「新庄藩には、田村正三郎というお侍はいないと申すのですかい」
「そうだ、わかったら、とっとと帰れ!」
張りつめた糸が切れたように、お仙はその場にしゃがみ込んだ。
「お仙ちゃん、しっかりするんだ!」
小平次は、お仙の身体を抱きかかえた。
「正三郎様は、間違いなく新庄藩のお侍さんよ。嘘をつくような人ではないわ」
お仙の目から涙がこぼれた。
その涙を小平次は中指の背で拭ってやる。
「お仙ちゃん、さあ、帰ろう!」
小平次に促されて、お仙は藩邸の方をもう一度振り返ると、それからゆっくりと歩き出した。
お仙は、道すがらも正三郎のことを考えていた。
稽古を終えた正三郎が、お腹をすかしているのを知ったお仙の母親が、ちょうど出来上がったばかりのぼた餅を出したときだった。
正三郎はすぐには食べず、皿に載ったぼた餅をしばらく眺めていた。
そして、国元の弟たちにも食べさせてやりたいと呟く。母親が勧めると、正三郎はひと口食べ、突然、嗚咽をもらした。国元では人々が飢えに苦しみ、満足な食事ができずにいる。こんに美味いものを自分だけ食べてと、目を真っ赤にした。
正三郎のやさしさに、お仙も思わずもらい泣きをした。
お仙の母親も正三郎のやさしさに涙を流し、甲斐甲斐しくお茶を入れ替えていた。
正三郎は食べ終えると、国元では小豆の代わりに、豆打(枝豆)をつぶして餡にし、これをつきたての餅につけて食べるのだと話していた。だが、国元ではいまは食べることはできないだろうと、淋しそうな顔をした。
お仙は無言で歩き続けていたが足を止めると、
「そう言えば、正三郎様は藩の大事な仕事をしていると」
「藩の大事な仕事?」
「どのような仕事かは話してくれなかったけど、度々、奉行所へ行くと言っていたわ」
「奉行所か!」
小平次には見当もつかない。
「藩から大事な仕事を仰せつかっていた人が、藩にいないなんて、まるで狐につままれたみたい。わたしがお会いした人は、いったい何処の誰だというの」
「悪い夢を見たと思って」
そのお侍のことは忘れたほうがよいと、小平次は言おうとする。
「夢じゃないわ、正三郎様は間違いなく、新庄藩のお侍さんよ」
「わかってるよ」
小平次はやはり、お仙を冷たく突き放すことはできなかった。
「正三郎様を藩士と認めないというのであれば」
「どうしようっていうんだい」
お仙はそれには応えず、覚悟を堅めたような険しい表情で歩きはじめた。