日本歴史改方

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コハダ、このしろ、稲荷ずし天保棄捐令異聞

八、お仙からの頼み

「それは売り物じゃあ、ねえんだよ」

先程から清吉は、口を酸っぱくして何度も言っている。
「それはわかってるわ。そこをなんとか、お願い!」

突然、お仙がやって来って、清吉が正蔵師匠に納めるために作った棺桶を売ってくれと言い出したのだ。
「お金なら、正蔵師匠より高く買います」

お仙は帯の間から巾着を取り出す。
「困ったお人だな」

清吉は苦り切った表情をする。

棺桶は正蔵師匠が入ることになっている。といっても、舞台の上でのことだ。正蔵師匠が棺桶の中から突如現れ、客を驚かせてから怪談噺をするという趣向だった。
「棺桶がほしけりゃ、桶屋に注文すりゃあ、いいじゃねえか」
「死んだ人もいないのに、頼めないわ」
「棺桶をどうしようってんだい」
「清吉さんは知らない方がいいわ」
「それは、どういうことなんだ」
「お願い!何も聞かずに、棺桶を売ってちょうだい」

まるで駄々っ子のようだった。
「こちとらも商売だから、売らねえってことはねえが」
「じゃあ、決まりね」

有無を言わせぬ強引さだ。
「何に使うか知らねえけど、変なことは無しだぜ」
「清吉さんには迷惑をかけません」
「迷惑はとっくにかけられてるよ」
「あら、そうだった?」
「正蔵師匠に収める棺桶を、また作らなくちゃなんねえんだから」

お仙に根負けして、清吉はその棺桶を売ってしまった。
「棺桶とわからないようにこもをかけて、縄でくくってね」
「棺桶とわかっちゃ、まずいのかい」
「そんなことより、軒先に置いといてね」
「誰か取りに寄こすのかい」

お仙はそうよと、首を縦に振った。
「あら、それは何なの」

お仙が見つけたのは、新庄藩から頼まれた作りかけの『ままごと屋』だった。
「化物芝居に使う小道具だよ」

清吉は咄嗟に嘘をつく。また横取りされては大変と思ったからだ。


暮れ六つ(六時)を過ぎると、両国橋を渡る人の数もめっきり少なくなった。

小平次は棺桶を担ぎ、片手には提灯を持っている。

時折、夜空を見上げるが、雨の心配はないようだ。

両国橋を渡り、西広小路を抜け、汐見橋まで来ると、お仙が橋のたもとで待っていた。

肩の棺桶を下ろし、小平次はひと息入れると、
「お仙ちゃん、本当にやるの?」
「ええ、やるわ!」

お仙は右手に提灯を、左手には篭を下げている。
「思い留まるなら、いまだぜ」

小平次は何とか止めさせようとする。
「いいえ、行くわ」

お仙の気持は変わらなかった。田村正三郎を新庄藩の侍として認めないなら、一泡吹かせてやろうと考えていた。

小平次は説得しても無駄と分かると、また棺桶を担いで、お仙の後を追っていく。

飯倉狸穴の新庄藩上屋敷前に着いたときは、小平次はへとへとだった。
「小平次さん、早く!」

お仙は棺桶を藩邸前に置くようにと指示する。
「えっ、ここに?」
「そうよ、小平次さん、急いで!」

小平次がこもの縄を解くと、お仙は篭に入れて持ってきたコハダを棺桶の中に一気にぶちまける。

小平次は思わず「おっ!」とけ反った。

コハダは、正三郎が大喰大会に出ていたというあかしだったからだ。

最初、お仙は新庄藩にコハダ鮨を送りつけると言ったが、コハダ鮨は小平次の大事な売り物だ。鮨売りがそんなことに加担したら罰が当たってしまう。それに、食べもしない飯粒がもったいない。握る手間だって大変だ。

このことが大事おおごとになれば、与兵衛ずしの親方が手配している見立番付にも水を差すことになる。お仙のうっぷん晴らしの材料に、コハダ鮨が使われることには承服できない。だが、お仙は言い出したら後には引かない性格なので、小平次は傷んで売り物にならないコ ハダを魚河岸から仕入れてやったのだ。
「さあ、帰りましょう!」

お仙は気持が収まったのか、さばさばとした表情だった。


その棺桶を新庄藩の門番が見つけたのは明け六つ(六時)過ぎだった。

門前に置かれた棺桶からは異臭がしていた。

門番は仲間を呼び、恐る恐る棺桶を開けると、
「このしろだ!」

びっくり仰天した。

このしろもコハダも、門番には区別がつかないのだ。

知らせを受けた長野盛重は処分するように命じ、このことは他言無用だと口封じをした。

小平次は、昨夜のことが気になってよく眠れなかった。

鮨売りの仕事もそこそこに切り上げて、新庄藩上屋敷へと向かう。

藩邸前に置いたはずの棺桶は片づけられ、何事もなかったように静まり返っている。

小平次は門番に見つからない場所はないかと、キョロキョロしていると、
「小平次さん、こっちに」

お仙が立っていた。
「駄目じゃねえか、こんなところに一人で」小平次は強い口調で言った。
「大丈夫よ」
「大丈夫なもんか、しょうがねえな」

向こう見ずなお仙の行動に顔をしかめる。
「棺桶のことはどうってこともなさそうだから、さあ、帰ろう!」

小平次がお仙の袖を引き、強引に連れて帰ろうとしたとき、一丁の辻駕籠が藩邸前にきて止まった。

下りてきたのは与兵衛ずしの親方だった。
「親方がどうして、ここに?」

洒落者の親方が、たすき掛けを取っただけの普段着で来るとは、余程のことだと小平次は思った。

門番には話が通っているのか、親方はすぐに屋敷内へと入っていった。
「正三郎様は、やはり、新庄藩のお侍だったんだわ」
「何か理由わけがあるんだろう」

正三郎が姿を消した理由を、親方は知っていたのだ。
「おいらが親方に確かめてやるから」

小平次は、お仙に無茶をしないようにと念を押した。