日本歴史改方

文字サイズ:

コハダ、このしろ、稲荷ずし天保棄捐令異聞

九、怪物 向島の隠居

中野播磨守の向島の別墅べっしょは、樹木と庭石に埋もれていた。

三千坪といわれる広大な敷地には、ひさご型の池や築山が配され、石灯籠や巨岩怪石が趣を添えている。石が多いのは播磨守の好みによるもので、それらはすべて諸大名から献上されたものだった。

十一代将軍家斉の信任が厚いため、諸事の請託は向島の隠居を通さねばと、引きも切らず客が訪れる。屋敷の付近には、そうした客のために進物用の店が立ち並んでいる。

甘いものや珍しいものに目がない播磨守が贔屓にすると、商人の格が上がり、店は繁盛した。その権勢は、いまや商人の世界にも及んでいた。
「播磨守様の御陰を被りまして、こうして出来上がってございます」

華屋与兵衛は出来上がったばかりの見立番付『江戸じまん名代名物案内』を、播磨守に恭しく差し出した。

与兵衛の隣には、新庄藩の御留守居役家老の長野盛重も控えている。播磨守に引き合わせてもらうため、与兵衛に同行してきたのだ。その背後には大風呂敷に包んだ土産が置かれている。

与兵衛は型通りの引き合わせを終えると、盛重の用向きを知っていたので自分は早々に帰っていった。

与兵衛がいなくなると、播磨守は土産らしきものにジロリと目を向け、ぽつりといった。
「そちの藩の若いもんは、残念であったな」

播磨守は新庄藩の侍が大食い大会に参加し、脱落していたことを知っていた。

盛重はそれには答えず、頭を深く下げた。

その後、播磨守は与兵衛が置いていった見立番付に見入っている。

盛重は持参した土産をいつ渡そうかと、その機を窺っていた。

播磨守は見立番付を目に近づけ、睨みつけるように見ながらブツブツと独りごとを言っている。しばらくすると、いまいましそうに舌打ちをした。行司役の自分の名が小さいのが不満のようだ。

しばらくすると、見立番付を傍らに置き、座り直した。

盛重はここぞとばかりに、
「春の桜見物の供にでもと思いまして、ままごと屋と申すものにございます」

大風呂敷を解き、白木の台所箪笥を取り出した。
「なに、ままごと、、、、?」

鋭い視線で見返す。
「いえ、ままごと屋と申しましても、女児の遊び道具ではございません」

盛重は、ままごと屋の扉や引き出しを開け閉めして見せ、中に仕込まれている小型の包丁やまな板などを示し、
「野外にあっても、吸物や刺身、口取りなどを作ることができるのでございます」

慌てて言葉を添えた。
「なるほど、それで、ままごと屋か」

播磨守の頬の肉が緩み、初めて笑みをこぼした。

食道楽の播磨守に喜ばれる進物だと、与兵衛が勧めてくれた通りだ。盛重はほっと胸を撫で下ろした。

しかし、それもほんの一瞬だった。

播磨守は真正面から盛重を見据え、何が望みだと言わんばかりの顔をする。

盛重はひと呼吸入れると、
「実は、折り入って、お願いの儀が…」

麻布狸穴の伊勢屋忠兵衛から借金返済の訴えを、江戸町奉行所に持ち込まれていることを手短に話した。
「貸した金が返してもらえず、伊勢屋が訴え出るのは尤もなことだ」

播磨守が軽くいなす。困窮しているのは新庄藩だけではない。
「さようでござりますが」

出ばなをくじかれ、盛重は言いよどんだ。
「如何ほどの借金だ」
「おおよそ二万両ほどで」

六万八千石の新庄藩に、それがどれほどの重荷であるかを盛重は切々と訴えた。
「伊勢屋とは、どういう関係から金を借りたのだ」
「寛政以来の御用商人にございます。藩の財政を支えてくれたこともあって、一時は二百ふち石の扶持も与えたと聞き及んでおります」

当時、扶持を与え、知行格式も与えたのは、借金返済を繰り延べしてもらうための一時凌のようなものだった。
「そのような関係にあって、何故、訴え出たのだ」
「当藩も借金返済のために借金を重ね、その結果、金額が膨らんでしまいまして…伊勢屋も思いあまってのことと」

盛重は自藩に落ち度のあることも認める。
「で、どうしろと申すのだ」

どこの藩も借財を抱え、有効な策のないまま借金弁済のために、新しい借入れをするという悪循環に陥っていた。
「実は伊勢屋の訴えを、しばらく取り下げてもらえぬものかと」
「わしがか?取り下げるのは、伊勢屋だぞ!」
「それは重々に、そこを播磨守様のお力で」
「ふむ、それで、返済のめどは立っているのか」
「早急には、無理でござりますが」
「では、何故に、待ってくれと申すのだ」
「実は、伊勢屋以外にも」

盛重は額の汗を拭くと、江戸在住の金主が九十八名いることを打ち明けた。
「奉行所が、伊勢屋の訴えをお取り上げになりますと、他の金主も黙ってはいないのではないかと思いまして」

訴えを次々と起こされては、藩存続の危機さえ起こりかねないと、盛重は心配していた。
「奉行所に横槍を入れろと申すのか」
「実は…」
「まだ何か、あるのか」
「大食い大会に出ていた当藩の者ですが、この度の伊勢屋との折衝で使番をさせておりました」
「それが、どうした」
「しばしば、町奉行所に召喚され、奉行所の面々にも顔を知られております」「度々、出頭すれば当然のことだ」
「しかし、あの後、行き方知れずとなりまして」
「行き方知れずだと?」

播磨守が顔色を変える。
「なに故だ」
「それが、さっぱり…」

盛重はもごもごと口ごもる。
「何が言いたいのだ」
「不審に思われませんかと」

大食い大会の肝いりである播磨守にも害が及ぶことを暗にほのめかす。
「わしを脅すのか」
「滅相もない。ただ…」

盛重が何か言おうとすると、
「もうよい」

播磨守はむっとした顔をする。
「約束は出来ぬが、話しだけはつけて進ぜよう」
「なにとぞ、よしなに、お願い申し上げます」

盛重は深々と頭を下げた。

播磨守が話しをつけてやるといえば、大抵のことは八分通り叶えられていた。

播磨守の口添えで、実際に定火消じょうびけしを免れた旗本もいる。この役を仰せつかると出費がかさむため、旗本たちは振り当てられないように手を打っていたのだ。


「何だって?棺桶がそんなことに使われたのか」

清吉は、小平次から話を聞かされ、自分が作った棺桶にコハダが入れられたことに驚いている。
「言い出したら聞かないのが、お仙ちゃんだから」

小平次がいきさつを話すと、
「その侍に、ほの字だったのかな」

お仙の乳母おふじも知らないことだろうと、清吉は思った。

おふじが知れば黙っていられず、必ず自分に話すからだ。
「その侍がぶっ倒れて、連れて行かれたあと、清吉つぁんはどうしていたんですかい」
「それがなあ、いや、もう、腹が一杯になって、目の前が真っ暗になっちまって」

そのときの状況を清吉は思い出すことができなかった。
「そうだ、その侍、間違いなく、新庄藩の侍だぜ」
「清吉つぁん、どうして?」
「紋所だよ」

新庄藩で見たご家老の九曜紋が、あのときの侍と同じだったからだ。
「やっぱり、そうか、その侍は家老と一緒に、万八楼にきたんだな」

小平次は棺桶を置いた翌日に、与兵衛ずしの親方が新庄藩の上屋敷に入ったのが気になり、親方にそれとなく聞いてみたが、とぼけられてしまった。
「与兵衛ずしの親方は知ってて、隠しているんじゃないか」
「どうして隠す必要があるんだ」

小平次は納得がいかない。
「おめえも、お仙ちゃんに乗せられて、いい面の皮だったな」
「それはお互いさまだ。正蔵師匠の棺桶を横取りされた清吉つぁんも」
「ちげえねえ!」
「お仙ちゃんにも困ったもんだ」

二人は顔を見合わせて笑った。
「ところで、あの侍、何で馬鹿みてえに、コハダ鮨ばかり喰ってたんだ」
「それも、お仙ちゃんのせいさ」
「どうして?」
「コハダ鮨は、江戸っ子が好む粋な鮨だとか、言ったらしい」
「それで、いいとこ見せようと、とんだ、お笑いぐさだなやっぱり、与兵衛ずしの旦那には事情を話して、聞いてみたほうがいいぜ」
「棺桶とコハダのこともですかい?」
「そんなことを言ったら、棺桶を売ったこっちにも、小平次にもとばっちりがくるぞ」
「鮨が回してもらえなくなったら、商売も上がったりだ」
「そうだ、与兵衛ずしの旦那に用事があるから、これから一緒に行こう!」

清吉は新庄藩に納めたままごと屋の手間賃を、与兵衛から受け取る手はずになっていた。