コハダ、このしろ、稲荷ずし 天保棄捐令異聞
江戸時代の飢饉といえば「享保の飢饉」「天明の飢饉」「天保の飢饉」の三大飢饉が知られ ている。「天保の飢饉」は天保4年(1833年)から天保7、8年にかけて全国を襲った飢饉で、天候不順による深刻な冷害で凶作となった。 天保の飢饉が近づいていたころの江戸では、まだ「大喰い大会」が開かれていた。 町人たちは「コハダ鮨」を乙(おつ)な鮨として賞味し、コハダ鮨売りの粋な売り声を愛で ていた。
当時はどこの藩も財政難に苦しみ、なかでも新庄藩の借財はかさみ、商人からは借金返済 を迫られ、国元では食べる物にも事欠いていた。 そんな折りに、藩士のひとりが「大喰大会」に参加し、コハダ鮨を食べて亡くなり、その 死に不審を抱いた三人の若者が事件の真相を探る。
コハダは成長すると「このしろ」と呼ばれるため、「この城」に通じると、江戸の侍たちは ゲンを担いで「コハダ鮨」を口にしなかった。