水戸天狗党
尊王攘夷を目的とした集団で、1864年に藤田小四郎らの一味が、筑波山に挙兵して、天下を驚かした義兵たちのことです。天狗党と呼ばれるようになったことははっきりとわかっていませんが、一説では京都側(天皇側)につくと鼻が高くなるという意味で天狗党と言われています。
天狗党の動き
| 年号 | 出来事 |
|---|---|
| 1860年 | 徳川斉昭の死去により、保守派と改革派が対立 |
| 1864年 |
3月、藤田小四郎が筑波山で挙兵する、動きは関東にとどまり鎮圧される 11月、武田耕雲斎が再び挙兵 12月11日、幕府追討軍に包囲され823名が降伏 |
| 1865年 | 2月、来迎寺境内で処刑 |
詳細
水戸藩8代藩主徳川斉脩には男子がおらず、その後継者に関する問題が生じました。
11代将軍徳川家斉の子である恒之丞を支持する保守派と、7代藩主治紀の子である敬三郎を支持する改革派(のちの天狗党)との間で藩内での対立が生まれ、次第に拡大していきました。
斉脩の遺言により継嗣は敬三郎となり、斉昭として藩政改革を進め、これにより斉昭の時代には改革派が重用され、保守派は藩政の中心から遠ざけられました。しかし、内憂外患の拡大とともに両派の対立は激化し、1860年に斉昭が死去すると対立は一層深刻化していきました。
両派の対立が深まる中で、改革派の中からは尊王攘夷を強硬に主張する一派(激派)が生まれました。そして、1864年3月には同派の首領である藤田小四郎が、国政上の課題であった横浜港鎖港を実現しようとして筑波山で挙兵しました。この動きは関東に留まり、目的を達成する前に鎮圧されました。
大規模な戦闘の後、那珂湊から脱出した天狗党一行は、同じ年の11月1日に大子村で改革派の家老である武田耕雲斎を将に立てて再び挙兵し、横浜港鎖港を主張していた禁裏御守衛総督である一橋慶喜(斉昭の子)を頼って西上を開始しました。一行は幕府から「浮浪之徒」と呼ばれ、先々で諸藩に行く手を阻まれましたが、行路を変更しながら京都を目指して西上を続けました。美濃国から尾張国へ入る手前で進路を北に変え、12月4日に蠅帽子峠を越えて越前国に入りました。
慶喜が天狗党追討軍の総大将であることが判明し、包囲が迫り行く手がふさがれたため、追討軍による総攻撃直前の12月11日、天狗党一行823名は降伏することを余儀なくされました。降伏した823名は初め加賀藩に預けられ、丁重な扱いを受けましたが、幕府に引き渡されると肥料となる鰊粕を貯蔵する蔵に送られ、罪人として扱われました。そのうち353名は形式的な取り調べを受けて斬罪となり、1865年2月に来迎寺境内で処刑されました。残る約470名は遠島、追放、水戸渡し、寺預け、江戸送りなどの刑に処せられ、水戸で始まった天狗党の乱は敦賀で終息しました。
公開日:2024.03.27